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朝吹龍一朗の目・眼・芽

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2010.11.18
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カテゴリ:ばっちっこ
ばっちっこ その17

濃いブルーの、硬めのコートを素肌に羽織っていた。照明の具合やらなにやら俺なんかにはわからないいろいろな理由ももしかしたらあったのかもしれないが、ステージの上にいたときとはだいぶ違う顔色をしていた。まがいものの「コニャック」による酔いが醒めつつある俺はともかく、ももよさんはさっきまでの青白いとも言うべき顔色に、血の気が戻ってきつつあるように見える。コートのカラーをこれ見よがしに立て、決して大きいとは言えない胸のふくらみを俺がのぞきこめるように、時折しなだれかかりながらほどんど無言のままションベン臭い新宿大ガードをくぐった。猥雑としか言いようのない東口から未来都市然とした西口に来ると、ようやくももよさんが口を開いた。

「あんた、ああしをどうするつもりかな。あたしはシモキタだけど、タクシーで帰ってもいいんだけど、あんたはああしをひとりさみしく帰すつもりはなさそうなありそうな、お連れさんは消えてしまったようで、どうやら独り身のようだし度胸ありそうだし、でも世渡りが上手いようにも見えない。あんたはいったい何者で、あたしの身体以外に欲しいものがありそうなので」
「まずは、音か、顔か、身体か。でもその前にモモヨを家まで送って行かなくっちゃね」
「どうしてああしの名前をご存じなのかしら」
「昔からの知り合い。俺が生まれる前、モモヨが生まれる前からの知り合い」
「困ったもんだわよ、どこのセイガク? 早稲田? 慶応? 東大じゃないわね」
「謎めいていた方がええでっしゃろ」
 そのころようやく関東でも知れるようになった上方漫才の、たとえば笑福亭仁鶴あたりを思い描きながら、関西弁を真似しておどけてみた。
「関西の人には見えへんけどね。そんなんいうんなら、うちとこ、おいで。ほな、タクシー止めよ、頼むで」
 モモヨは京都のものらしいイントネーションで返事をした。

 忘年会には早すぎる平日の12時過ぎだから、タクシーは容易に捕まった。南口のほうから甲州街道を下り、俺の通った小学校のそばを通り過ぎてしばらくすると幡ヶ谷である。京王線を横切って狭い道を走りぬけるといつの間にか井の頭通りに出る。再び酔いが回ってどこにいるかわかなくなりかけたころ、茶沢通りから東に入ったと思しきあたりで車が停まった。タクシー代はモモヨが払った。車内ではいちいちの曲がり角で的確に指示を出していたので、モモヨは少なくとも酔っぱらってはいないようだったが、ドアの外で待っていた俺の腕の中に倒れこんできた重さは信じられないくらい軽いものだった。40キロそこそこしかない華奢な母親をたわむれに抱き上げた時の腕の感触と比べても半分しかないのではと思った。

 それまで俺たちはずっと無言だった。抱きとめたかたちのまま固まってしまったような感じで、次のしぐさに俺は踏み出すことができない。こういうとき、響子は必ず先回りしてリードしてくれていたせいもある。両腕の中でモモヨが背伸びした。耳元でささやいた。
「音なの、顔なの、身体なの」
「一つずつ、確かめようか」
 モモヨが提示した選択肢は俺自身が考えだしてモモヨに伝えたものだ。そう、俺はやっと自分で自分の意思を伝え、決定するということがどういうことなのかわかった気がした。選択肢と、選択。なんと単純なことだ。考えてみれば学校の勉強でもテストでも、生徒会の紛糾事項でも議決でも、時々夜逃げしていなくなる友人を詮索がちな教員や他の同級生から守るのも、みな、「選択肢の提示、そして選択」という順番にすぎないのだ。男と女の関係も、同じことだった。あったり前すぎて誰も教えてくれなかったことに、この晩、気がついた。

 そう、気がついたときはもう朝だった。アパートの外階段を昇り、8畳くらいの部屋に通され、することをした後、『ホエイ』とかいうへんてこな名前の薬を飲まされ、そこから先は記憶がないまま、ぺろぺろと音がするくらい頬を舐められているときに目が覚めた。その直前まで見ていた夢の中では俺は何故か女で、モモヨと響子の二人が男になっていて、前と後ろから犯されていた。前から覆いかぶさっていたのがモモヨで、俺の顔にキスの雨を降らしているかと思うと俺を飛び越して後ろにいる響子と長い舌をからませている。男同士なのになんて気持ち悪いことをするんだろうかと思っているとすぐにモモヨが俺の方に向き直ってきて、二人に愛されるのはうれしいだろう、と言った。

 そこで目が覚めたわけだが、しばらくは夢の続き、いや、夢が夢であることがわからない状態だった。そう、『胡蝶之夢』だ。夢を見ている男が俺なのか、夢の中で本来女であるはずのモモヨと響子の二人から同時に責められて死にそうなほどの歓喜を味わっている女のからだをした俺が、本来の俺なのか。
 そんなのどうでもいい、というのは、本来の『荘子』の答えにあっているのかどうかしらないが、そんなのどうでもいいと自分なりに悟ったと思ったら正気に戻った。いや、男の俺に戻ったと言うべきかもしれない。仰向けに寝ている俺の上にはぴったりと体をつけて、まだぺろぺろと顔を舐めまわしているモモヨがいた。
「あら、あrrら、のぶひこさま、お目覚めね」
 あrrら、のところは上手な巻き舌だった。ゆうべはずいぶん高い、ちょっとかすれた声でしゃべっていたように思うのだが、そのからかいを含んだ声は低く、晩秋の空気というより晩春のそれのように湿り気を含んだものだった。
「なんで俺の名前知ってんだよ」
「あrrら、だいぶ聞し召して(注1)いたもんね、覚えてないんだね」
「コニャックを飲んでたから」
「それも聞いちゃった。ソ連製のニセモノ、ね。のぶひこさま、ね」
 どうやらあることないことだいぶしゃべったらしい。照れ隠しに首だけ持ち上げて5センチの距離をジャンプした。
 モモヨの唇に俺の唇が衝突した。
 そのまま蛸の吸盤のようにくっついた。が、その口の中にモモヨの舌が侵入してきた。
 と、下半身が目覚めた。
『ネグリジェ』と表現されるのだと後で教わった、俺のボキャブラリーでいえば『寝巻き』なのだが、の裾が開けば下は素肌だった。舌のお返しに、俺のものはそっちに侵入した。

 然るのち、ブランチなどというしゃれた表現をモモヨから学んだ。この朝2回も楽しいことをしてから、ようやく『夜明けのコーヒー』(注2)を飲んだ時にはすでに11時を回っていた。そういえばこの歌は響子と初めて出会ったころよく流行っていた歌だ。『ピンキー』はてっきり『ピンクっぽい』ということだと思っていたのを、大笑いしながら響子に『小指のことよ、やーだ、さすがのぷろみっしんぐ東大さんも知らないことがあんのね』と訂正されたのをかすかに思い出していた。
 その間に、酔っぱらって意識がないときに吐き出した言葉の断片を大方回収
できたと思う。だからモモヨに、
「プロミッシング東大さん」
と呼びかけられても、たぶんそんなことも話したのだろうと腰を据えて受け答えすることができた。
 だが、それにしても初めての女性と一晩過ごすためには、さすがにアルコールには限度があるべきだという、当たり前のことを学んだ。このときは予期せぬ出来事であったとはいえ、いや、予期せぬ出会いがあるからこそ、酒には気をつけるべきなのだ、特に15歳にとっては。
 なんていう、馬鹿なことを考え、無邪気にモモヨとじゃれているうちにおそい秋の遅い朝の時間が過ぎて行った。

 俺が学校に来ないのでひと騒ぎあったようだが、昼過ぎに悠々と出て行った俺に、これで皆勤もなくなったからお前の内申書は覚悟しておけよ、と学年主任の数学教師が勝ち誇ったように言った。
「あなたの教頭昇進も消えてるからね、わかるよねえ」
と、これは俺にとっては精一杯の負け惜しみだったのだが、どうやら新潟出身の省エネ口調でしゃべるこの教師の胸の壺に的中したらしい。きさま、と叫ぶといきなり殴りかかってきた。


注1)聞し召して「きこしめして」 飲み過ぎている様子のこと。今は死語か。
注2)ピンキーとキラーズ「恋の季節」




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Last updated  2010.11.18 23:26:39
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