テーマ:タイガース党(8352)
カテゴリ:ハ ァ ハ ァ !
「東京に行かなければ、この世界ではやっぱり一流になれないんです、
一年だけ、東京の学校にいかせてください! その代わり行ったら必ず一流になりますから! 」 両親を説得し、わたしは大阪のデザイン学校を退学して 一年働くことになった。 学校に行かせるために、お金を貯めるから一年待って欲しい、 その間、働いて社会経験をしたらどうかと父は言った。 わたしも働くということに興味があったし、 どうせならデザイン関係の仕事をしてみたいと思った。 勘違いもはなはだしいが わたしは十分社会で即戦力になれると思っていたのである。 それが、いかに甘い考えであるかを わたしはすぐに思い知らされることになるのだが。 * * * わたしは面接を受けまくった。 当時から、自分をプレゼンすることには長けていたし デザイン画を持っていくと褒められた。 だけど、なんといっても専門学校退学。 結局、叔母の紹介で、 何とか小さなテキスタイルデザインスタジオに就職が決まった。 仕事は、布地を見て、その通りの絵を描いて、 同じ柄で、違う配色のものも書いて画用紙に貼ると言う仕事だった。 今ならパソコンでボタンひとつでやれそうな、原始的な仕事である。 初めて与えられたのは、フリーハンドの縞柄だった。 カンタンにできそうに見えた。ところが見るとやるでは大違い。 まず、サンプルと同じ色を作ることがこんなに難しいとは! 色を作るだけで1日かかった。柄は単純なのでカンタンだった。 仕上げて持っていくと、仕事が雑なので使えないと言われる。 フリーハンドで簡単に書かれているようで、 それをその通り模倣するのは難しい。 わたしにとっては、苦手な作業だった。 学生の頃、自分を取り巻いていた空気とそこは全く違っていた。 下っ端の自分は、先輩に話しかけるのも躊躇したし、 彼女たちも、古株の人同士で仲良くして、何となく肩身が狭かった。 * * * そんななかで一人、わたしをかわいがってくれた先輩がいた。 華やかな雰囲気のケイさんは、入ってまだ浅いらしい。 そして、どうやら同類のようであった。 会社のきっちりした仕事は苦手だけど、オリジナルには自信があると言う。 事実、ケイさんは、テキスタイルの賞を何度か貰ったことがあるらしく、 先輩たちからも一目おかれていたし、仕事でミスをしても 堂々としている明るい人だった。 彼女と話すようになって、辛かった会社生活が楽しくなり始めた頃、 新入社員さんが入ってきた。 綾女さんは、ケイさんとは対照的に、地味な雰囲気で仕事が出来た。 ケイさんと、綾女さんと、もうひとり、るみさんという人と わたしは4人で仲良くするようになった。 わたしは、会社生活が楽しくなり、仕事をこなせるようになっていた。 その年はちょうど、阪神タイガースが21年ぶりの優勝をした年で 大阪は阪神一色だった。 何か、アツくなれるものを探していた。 そんな気持ちに、ちょうど合ってたのかもしれない。 野球なんか見たことがなかったのに、いつのまにか にわか阪神ファンになっていた。 それだけで終わらないのが、わたしらしいところかも知れない。 わたしは、選手の似顔絵やコラムの入った スポーツ新聞のような会報をつくって 仲良しの3人に毎日渡すようになったのである。 彼女たちはそれを楽しみにしてくれた。 わたしは、彼女たちから一目置かれるようになった。 そしてそれは、他の先輩の間にも波及し始めた。 * * * それを決定的にしたのが、会社の有志で開いたデザイン展のときだった。 コピーとイラストを組み合わせた、横尾忠則さん風のわたしの作品に 周囲のわたしを見る目が変わった。 会社を一年で辞めて、東京に進出するらしいと言う噂も流れて わたしは、みんなとは志がちょっと違う人 と言う見方をされるようになった。 会社が楽しくなるのはいいことだが 楽しくなりすぎて、わたしは葛藤していた。 季節は冬になり、わたしにはタイムリミットが迫ってきていた。 元々このスタジオには一年だけ、腰掛のつもりで入ったのだ。 やっと上京できる! わたしには待ち遠しい時間が迫っているはずだった。 だけど、毎日仲のいい友だちに会えて、阪神の話で盛り上がったり 自分のコラムを楽しみにしてくれる人のいる この環境が居心地よくなったわたしは 一年でこのスタジオを去ることが辛くなっていた。 わたしは、結局惜しまれて会社を辞めた。 もっと早く仲良くなりたかったといってくれた人もいた。 仲良しグループのみんながわたしのうちに集まってくれて、送別会をした。 * * * 最近、ネットで検索をしていたら、ケイさんがブログを開いて わたしのことを書いているのを発見した。 「いまや恋愛のオピニオンリーダー、藤沢あゆみ。 間違いなく私の知り合いのなかで一番の出世頭。 実は同じ会社で働いたことがあるんだよ。 当時からすごいパワフル、バイタリティーと行動力の人で、目立っていました」 行動力の人?・・・最終的にはそうだったかもしれない。 結局わたしはにわか阪神ファンの自分達に「ニワトラ会」とか名づけて いま思うとコミュニティーの真似事のようなことをしていた。 阪神になんか興味のなかった人も巻き込んで会員を増やしたりして。 ニワトラ会に入ることを乳会とはいわなかったけど。 そして、わたしと係わった人はなぜかテンションが高くなった。 まさに、ハァハァ隊と同じ行動パターンではないか! だけど、わたし自身は、この一年の自分って すごく地味で、対人関係にも、不器用な女の子だったと記憶している。 アツくなれるものを、探してた。 会社を辞めるときになって、わたしは、やっと自分を取り戻せた気がした。 わたしは、多くの思いを残して、東京に旅立つことになった。 * * * あゆみで~す♪ ハァハァ!を書くために自分のルーツをさぐっていたら こんなエピソードを思い出しました。 ある一年の出来事。 いくつかこういうお話を書いてるんですが 自分の行動にはどこか共通するパターンがあるものです。 さて、あゆみの場合は・・・? どうやらマイナーからハァハァしてそこで一目置かれる みたいなパターンが多いようです。 そんなわたしにとって、当時の阪神のチームカラーには 共感できるものがあったのでしょう。 * * * 阪神リーグ優勝おめでとう!!!ハァハァ! 岡田監督といえば阪神21年ぶり優勝のときのV戦士。 感慨もひとしおです。 あぁ!甲子園にイきタイガース(寒) ↑こういう言い回し、当時流行りました。 ピンクのユニフォームちょっと欲しいかもです☆ 黄色と黒のツートンカラーの服とか作って私設応援団の人を相手に 商売したり、文房具が全部黄色だったときもありましたです。 今はなき、プロ野球ニュースの、CMに変わるシーンで 似顔絵が紹介されたりしたこともありました。 本気でトラ番記者とか目指したこともありましたです。 う~ん、こういうときはテレビがないのが残念で~す♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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