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カテゴリ:国内旅行365
本日は、いよいよ最新刊「おもしろ歴史ウォーキング 神奈川編」からのネタです。
神奈川県は、日本史に大きな影響を与えた鎌倉や小田原がありますね。ほかにも、明治、大正、昭和にまたがる海軍遺産や近代化遺産の宝庫です。
今回、ご紹介するのは、第1章の『幕末の日本が震撼! 黒船が襲来した三浦半島・浦賀と当時の面影を残す浦賀道 神奈川県横須賀市』
諸事情があって、冒頭の部分だけですが…。
それでも、3千文字を超えていますから、普通のブログの記事としては多いかも。
すべての記事は、こちらです。
是非、本書もご覧いただければ幸いです。
1.巨大UFO襲来のようなインパクトがあった幕末の黒船
今回は、神奈川県横須賀市の浦賀を歩きます。
三浦半島の浦賀といえば、日本史の好きな人は幕末を思い浮かべるかもしれませんね。
江戸時代末期、アメリカの海軍提督ペリー率いる4隻の黒船が来航したのが浦賀沖なのでした。それによって、泰平の眠りから叩き起こされた日本は、幕末の動乱を経て近代国家へと歩み始めるのですね。
「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで、夜も眠れず」と狂歌にうたわれたのは有名の話。
恥ずかしながら、今までその意味がわからなかったのですよ。今回浦賀へ行って、ようやくその秀逸なジョークが理解できました。
なるへそ~。笑点でそれを答えたら、座布団二枚は確実にもらえそう。そのココロはのちほど…。
ところで、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号は、全長78.3メートル、排水量2450トン、乗組員300名くらいだったとか。
今でも、そこそこの大きさの船ですが、当時の人たちから見たらガミラスの遊星爆弾や未知との遭遇の巨大なUFOが飛来したくらいの衝撃だったのでしょうね。
当時の日本の巨大船といえば千石船。
大きさは20メートル前後で、重さは100トンくらいでしょうか。
当時の人から見たら、「島が動き出したような船」という表現も誇張ではないような気がしました。
ところで、黒船が黒いのは、防腐・防水のためにタールを塗っていたかららしい。
マグマ大使に出てくるゴアの宇宙船も黒だし、宇宙戦艦ヤマトに登場する超巨大戦艦も黒。鉄人28号のブラックオックスも黒ですよ。
黒い巨大なものがいきなり現れたら、民衆がパニックを起こすのは必然のような気がしました。そんな当時の風雲急を告げる状況をイメージしながら、浦賀を旅してみようと思います。
2.今も残る巨大造船施設跡・浦賀ドック
ウォーキングのスタートは、京浜急行の浦賀駅。ここはターミナル駅でもあるのですな。
駅を出ると、巨大な倉庫のような建築物が続いています。
これらの建物は、100年以上にわたって船を建造してきた浦賀ドックの跡なのだとか。
京急の駅でもらったお散歩マップによると、浦賀ドックは平成15年に閉鎖されたみたい。
日本丸などの帆船や青函連絡船、大型タンカー、自衛隊の艦船などもここで作られたのですか。
入り口は質素ですが、歴史と威厳を感じました。
中は見学できないので、敷地の外の通りをずっと歩いてゆくと、やがて塀越しにドライドックが見えてきました。
以前来た時、参考にしたお散歩ガイドによれば、「背が高い人は、背伸びをすれば塀の向こうのドックが見えます」と書いてあった記憶があります。
身長175センチの私でも、背伸びをすれば中がよく見えると喜んだのですが、塀が新しくなって、背伸びしても中を見ることができませんでした。
仕方なく、背伸びしたまま、腕を大きく伸ばして撮ったのが上記の写真です。
歴史を感じさせるドックですが、それもそのはずで明治32年に作られたのだとか。隣に見えるクレーンは、昭和18年に作られ、一つだけ解体されずに残っているクレーンとのこと。
最盛期は、こんなクレーンが建ち並んで、巨大な艦船を作っていたのですね。
少し山のほうへ歩き、浦賀コミュニティセンターの分館へ寄ってみました。
浦賀の歴史を紹介する小さな博物館なのですが、浦賀奉行所やペリー艦隊、勝海舟で有名な咸臨丸の模型などがあって興味深かったです。
奉行所の与力だった中島三郎助という人をはじめて知りました。幕末の船の建造や函館の五稜郭で幕府方として戦って戦死するなど、波乱に満ちた生涯を送ったのですね。
ところで、先ほどの「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで、夜も眠れず」という狂歌。
この狂歌にでてくる上喜撰とは、上質のお茶のことだとか。お茶にはコーヒーと同じカフェインが含まれていて、飲みすぎると夜眠れなくなりますよね。
そこで、上喜撰と蒸気船をかけ、黒船が現れたことによって、日本人が夜に眠れなくなるほどの衝撃を受けたということを表現したのですね。
それを知って、思わず、パチパチパチと拍手したのでした。
3.源氏の天下に貢献した、夢が叶う神社がある
浦賀コミュニティセンター分館を出て、再び浦賀駅のほうへ戻り、対岸の東浦賀と呼ばれる地域へ向かいます。
浦賀水道を右手に眺めながらテクテク歩き、着いたのが東叶神社。
東叶神社というからには、西叶神社もあるのだろうかと思ったのですが、その通りで、浦賀の港を挟んで東西の叶神社が向かい合っているそうな。
叶神社とは珍しいネーミングだと思いました。
社伝によると、平家物語にも登場する文覚上人が、源氏の再興を願って房総半島の鹿野山に修行し、 もし自分の大きな願いが叶えられるなら、よい土地を選んで神社をたてることを誓ったらしい。
結果は見事、源氏の再興どころか、天下を取ってしまったのですな。
そして文治2年(1186)には源頼朝が源家再興願意成就の意を込めて神号を改め、叶大明神と尊称されたと伝えられているとのこと。
夢が叶うから叶神社とは、実に人々のニーズを的確につかんだネーミングですな。
これはしっかりお参りしなければ、と鳥居をくぐります。
社務所の裏に洞窟のような場所があったので行ってみると、ここは勝海舟が咸臨丸での太平洋横断の前に、ここで水垢離をしたのだとか。
その奥には、勝海舟が使用したという井戸がありました。
そのあと、この神社の裏山となっている明神山山頂で断食をしたらしい。
お寺や神社のこういう因縁話は、多少眉につばをつけて聞かないといけない部分もありますが、時代が近いからこれはホントだろうと思いました。
石段をあがり、しっかりお参りをしたあと、振り向くと青い海が見えます。
海に面して立つ神社も趣があっていい。
4.房総の山並みが一望の浦賀城址
境内の左手には、裏山へと続く急な階段があります。
前回来た時、上ろうかどうしようか迷っていると、神社のおじさんに声をかけられました。頂上にのぼると海が見られるよ、とのこと。
う~ん、海は上らなくても見られるし、どうしようかなと思ったら、なんとこの丘は城跡だと教えてくれたのです。
それを早く言うてくだされ~、上ります、上ります、とお礼を言い、脱兎のごとく石段を目指したのを思い出しました。
海に向かって山が半島のごとく突き出した地形。城好きなら、当然、城跡を疑いますよね。
ただ、当時のガイドブックには城跡という記載がなかったような。あとで調べると、ここは浦賀城といって、小田原北条氏における水軍の海賊城だったことがわかりました。
(以下、「おもしろ歴史ウォーキング 神奈川編」に続く)
丘の頂上に登ると、広い東京湾を挟んで房総の山並みが見渡せました。浦賀城が、三浦半島へ侵入する里見水軍に対する前線基地だったのがわかります。
このあと、渡し船から浦賀ドックや浦賀水道を取り巻く山などの眺望を堪能。西叶神社や愛宕山公園、陸軍桟橋、浦賀奉行所などの歴史スポットも興味深く見学しました。
昔の灯台を復元した浦賀燈明堂は、一見の価値ありですね。野趣あふれる景色の海岸からは、ペリー率いる黒船がやってきた姿をイメージすることかできました。
ほかにも、江戸と浦賀を結ぶ浦賀道や縄文時代の貝塚と中世の城跡が共存するスポットなど、見どころが目白押し。
神奈川の歴史ウォーキングの醍醐味が味わえる続きは、是非、こちらをご覧いただければ幸いです。
(参考) 目次より 第1章 幕末の日本が震撼! 黒船が襲来した三浦半島・浦賀と当時の面影を残す浦賀道 神奈川県横須賀市
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最終更新日
2019年09月14日 12時54分50秒
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