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2006.12.20
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カテゴリ:ひとり言
豊臣政権という「超成長組織」において、
その実務を司った五奉行達。

その五人に優劣の差はあったにせよ、当代切っての
切れ者であったことは、想像に難くありません。
そして、その5人の中でも一際才能を高く謳われたのが
石田三成でした。

僕は長い間、これほどの切れ者である三成が、
なぜ「流れ」を見誤り、反徳川に付いたのかが
わかりませんでした。

もちろん、作者(=堺屋太一)が指摘するように、
当時の時代状況において、東軍(=徳川方)が勝つか
西軍が勝つかを的確に見抜けていた者は極僅かで
あったということは間違いのないことかも知れません。

しかし、当の石田三成は、どちらが勝ちそうかということは、
極めて的確に見ぬけられる地位と才能を有していたと
思います。
にも関わらず、なぜ三成は反徳川となったのか。

もちろんその理由が、豊臣秀吉への恩顧ということは、
かなりの部分を占めていたと思います。
しかし、「たったそれだけ」で、自らも、愛するものをも
危険に晒す戦いに、のめり込んでいけるのでしょうか?

三成は、自らの才能に自信を持っていたと思います。
その才能によって、「時代をひっくり返す」という
「野望」を抱き、その結果が関が原の合戦だったのでは
ないのでしょうか?

人は誰しも、己の功名を立てようとします。
「功名」といえば大袈裟ですが、少なくとも
嘲り虐げられるよりは、褒め称えられることを
選ぶと思います。

「天才・石田三成」も、その点においては
決して控えめではなかったでしょうし、
むしろ「目立ちたい」という思いは、人一倍であったと
思います。

その三成が世に問うた「作品」が、関が原の合戦で
あったのだと思います。

物語は、「関が原決戦前夜」で終わっています。
石田三成にとっての「関が原」も、実は「決戦前」に
終わっていたのかも知れません。

勝てば御の字。
負けても、ここまできた自分を誉めてやりたい。
三成は、そのように思っていたのではないでしょうか?

実務者として、計画の立案・遂行を行なう立場として、
関が原の合戦という「一大イベント」を立案・遂行し、
開会式まで漕ぎ付けた段階で、三成は満足していたのでは
ないでしょうか?

後は「出演者」が、自らの振り付け通りに踊ってくれれば
「勝ち」でしょうし、トチったとしても、それは出演者の
実力であって、三成自身の落ち度ではない。
そのように三成は思っていたのではないでしょうか。

だからこそ、「反逆の首謀者」として家康に捕らえられたときに
悪びれることはなかったのだと思います。
唯一つ、自分の愛しい者を死へ追いやったことを除いて。









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Last updated  2006.12.28 21:11:29
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