テーマ:戦争反対(1190)
カテゴリ:「バカの壁」シリーズ
~中国『遺棄』化学兵器問題考~ さてさて、妄言の女王が果敢にも反論を試みてきましたので殲滅しますw ■とうとう全文ツッコミできるといういいわけをするに至りましたねw 真っ赤かですw >条約解釈や「接収・引渡し」をくどくど書いていただいても、申し訳ないとは思いますが、 >左脳にも右脳にも響いてこないのです。 >左脳にも右脳にも響いてこない ・・・(○口○*) ウェーハッハッハッハw で、理解したくないからでしょ? ポツダム宣言に日本軍の完全なる武装解除と書いてある以上は「全て日本軍は武装解除された」と解釈する方が合理的でしょう。 台湾では武装解除の際に毒ガス弾も引き渡され、書類に残っていると書きましたが、どうして中国でだけ「遺棄された」と考える方が合理的なんでしょうか? 手元に資料がないので詳しいことは分かりませんが非常に大雑把な推計で武装解除時の支那派遣軍と関東軍は重砲約1000門、連隊砲や大隊砲などの歩兵砲も含めるとその倍ほどの2000門を装備していたと思われます。 内訳としては 支那派遣軍隷下 >昭和19年12月 支那大陸には27個師団、34個旅団、計100万の大軍を擁し、 >その大半は大陸の奥深くに展開していた。 (戦史 一号作戦/老河口・蕋江作戦3より) 関東軍隷下 >24個師団、2個戦車旅団、1個旅団、9個独立混成旅団、1個国境守備隊-虎頭要塞の第15国境守備隊-等を基幹とする >兵員約75万、火砲約1000門、戦車約200両、飛行機200機程度。 (戦史 終戦時の対ソ戦1より) となりますが実質的には実質8個師団程度の戦力とされています。 関東軍に至っては昭和19年2月から師団などの戦闘力抽出が続き、昭和20年3月末までに最後の在来師団全部と新設師団3個師団、軍直轄部隊多数が本土防衛に抽出されると関東軍兵力は過去最低に落ち込み「精強百万関東軍」は過去の栄光となっていました。 どうでもよい方向に話は進みますが抽出の一例としては 昭和19年10月第23師団→ルソン 12月第12師団→台湾 昭和20年 1月第71師団→台湾 3月第11師団→四国 第25,57師団→九州 戦車第1師団→本土 第111,112師団→南朝鮮 とまぁ無惨にも引き抜かれております。 誠に余談ながら、この本土決戦のために抽出された戦車第1師団戦車第1連隊第5中隊第3小隊には小隊長として福田定一少尉が配属されていましたが、この抽出によって内地に帰るという幸運に期せずして浴することができ、我が国は一時代を築いた稀代の文筆家を一人失わずに済んだのであった。 穴埋めの為に20年初頭から動員をはじめ、5月には中国戦線より北支方面軍と5個師団-支那派遣軍から第39・第59・第63・第117師団、第17方面軍から第79師団-が編入、更に在郷軍人25万人を動員した。 しかし、比較的早い時期に編成された第39師団や留守師団-常備師団の編成地に残される予備師団-から編成された第79師団はともかく、昭和17年に編成された第59師団や独立混成旅団から改編された第63師団や独立歩兵旅団から改編された第117師団は師団砲兵がなく全般に装備が貧弱で,関特演時の1/2~1/3程度の火力しかなかったとのこと。 余談ですが概ね昭和17年以降に編成された師団-この表の大東亜戦争期以降の師団-や師団番号が100番台の師団-100番台極前半の留守師団から編成された最初の師団は例外-には師団砲兵たる砲兵連隊がありません。 ・・・が、後述するように100番台だからと言って弱いわけではない。 特に昭和20年7月以降に行われた根こそぎ動員による新設兵団-8個師団、7個混成旅団、1個戦車旅団-は、対ソ開戦直前に編成概了したばかりで、兵員の多くは部隊到着途上、師団外形のみ存在し戦力は物心両面ともに極めて貧弱な状態であった。 ・・・誰か研究して日本版「ラスト・オブ・カンプグルッペ」書いてくれねぇかなぁ。 でも本家と違って読んでて鬱になるだけか・・・orz 冗談はさておき例えば昭和18年~19年に編成され、第44軍-旧関東防衛軍-麾下の第63師団-2個独混旅団から改編-と第117師団-2個独混連隊から改編-は師団砲兵がなく師団火砲は両師団併せて山砲18門のみ、第128師団は定員二万三千名のうち実在一万四千名、第1方面軍隷下部隊の速射砲は皆無に近く重機関銃は定数の二分の一、銃剣約10万本に加え野砲400門が不足していた。 一言で言えば関東軍自体が張り子の虎となっていたのである。 しかし、こんな貧弱な状態にもかかわらず各在満部隊は寡兵をもって勇戦敢闘、特筆されるべき必死の抵抗を続けました。 言ってみれば日本版「ラスト・オブ・カンプグルッペ」状態ですね。 と言うことで鬱にならない程度に書きたいと思います。 満州東部方面 満州東部の第1方面軍麾下第5軍及び第3軍の10個師団と各1個独立混成旅団、国境守備隊、機動旅団に対しソ連軍は35個師団、17個戦車・機械化旅団を基幹とするソ連第1極東方面軍と第2極東方面軍主力をもって侵攻しました。 東部正面を防備する第5軍司令官清水中将はソ連軍主力が東部正面最大都市である牡丹江に向かうものと正しく判断し牡丹江の防備に第124師団を前面に、第126師団、第135師団をその後方に配備した。 これら3個師団は牡丹江東側陣地においてソ連軍主力の猛攻に対し第124師団の一部は突破されたものの第126師団、第135師団と協同して肉弾に次ぐ肉弾で必死の防戦を繰り返し15日夕までの5日間陣地を固守し牡丹江在留邦人6万人の後退を完了させた17日には防御の限界に達し60km後退した際に停戦命令を受領し停戦した。 南部の第3軍は、一部の国境配置部隊のほか主力は後方配置し羅子溝の第128師団、琿春の第112師団は布陣した陣地で激戦を展開、広い地域に分散孤立した状態で攻撃を受けたため多数の死傷者を出しながらも決死敢闘し、停戦命令を受領した17日にはソ連軍に第二線陣地まで浸食されたものの停戦までソ連軍大兵力を寡兵をもってこれをよく阻止した。 満州北・北西部方面 満州北及び北西方面のハイラル方面には第4軍の内、第119師団とその前方に位置する独混第80旅団が守備についていた。 このハイラル北西にはソ連軍中最強のザバイカル方面軍の第36軍が進攻し、9日早朝急襲を受けた国境監視哨等には玉砕したものが多く、国境方面の在留邦人も避難の時間なく相当の犠牲者を生じた。 ハイラル守備部隊は圧倒的優勢なソ連軍の完全包囲下に陣地の大部分を確保して寡兵よく健闘し18日に停戦するまで敵第36軍の大勢力を凌ぎ、第119師団は停戦するまでソ連軍の突破を阻止、その結果邦人主力のハイラル在住者はソ連軍に後方を遮断される前にその大部分が後退することができた。 在満航空部隊 ソ連軍の機甲部隊に対しては原田中将以下第2航空軍がひとり立ち向かい12日からは連日攻撃に向かった。 攻撃機の中には全弾打ち尽くした後、敵戦車群に体当たり攻撃を行ったものは相当数に上った。 内蒙古方面 内蒙古には独立混成第二旅団-5個歩兵大隊、1個野砲大隊、1個工兵中隊基幹-が展開していた。 陣地はわずかに張家口北方約27kmの外長城線に、簡単な野戦陣地丸一陣地と、平地泉に丸二陣地を築くのみ精一杯であり、兵力も張家口や大同など内蒙古の南縁に重点配置され、奥地には特務機関と、それを警護する一個小隊前後の兵員が分散配置されているだけだった。 ソ連機械化騎兵旅団は9日から内蒙に侵攻を開始、14日には日本軍の前哨陣地のある張北の西北30kmに迫った。 これに対し駐満軍司令官根本中将は、張家口に終結しつつあった邦人約4万人の引き揚げを8月20日から開始することにし、同日張家口陣地に接近したソ連軍に引き揚げ終了まで猶予を願ったが聞き入れられず、守備する独立混成第2旅団は根本司令官の意図を体し、邦人引き揚げを援護するため抗戦を続行した。 この戦闘で同旅団は約70名の犠牲者を出すも4万人近い邦人は全員無事に引き揚げを完了した。 閑話休題が長すぎてその6へ続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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