カテゴリ:読書のココロ(エッセイ・その他)
嗚呼、読めば読むほど、文楽の世界に魅了されてゆく。 先日のこの本のトークショーで、 生しをんさんの魅力と文楽人形の表現の豊かさにココロ奪われ、 この本を読み終えた今、 もう私は「明日にでも文楽を観に行きたい!」という気持ちでいっぱいだ。 ほんのひとつき前までは、文楽のブの字も知らず、 興味も何もなかったクセに(笑) この本は、文楽の指南本ではあるが、 抱腹絶倒のしをん節は、ここでも健在だ。 『仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゅうしんぐら)』では 【仇討ちバカ】大星由良助(無論、大石内蔵助のこと)の執拗な用心深さや、 ここぞ!という場面でのあまりのタイミングの悪さに、 「何度もいうようだが、きらいだ。私はこいつがきらいだ」 とぶった切り、 『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』では 女癖の悪い甲斐性のない夫に対し、 イヤミなまでのへりくだりと、尋常でない尽くしぶりの妻に対し こわいー!むっちゃこわいー!ぶるぶるぶる。 あまりにも「つくす女」「夫に理解のある女」すぎて、もはやホラーとしか思えない。 重い、この女は重すぎる。 と、ツッコミを入れまくる。 随所でぷっと吹きだしつつ、 気が付けば文楽の魅力にどっぷりだ。 そんなしをん節の魅力もさることながら やはり一番、文楽を観てみたいなあと思わせるのは、 人形の動きである。 この本のトークショーでも、ちらりと拝見したのだが 人形遣いさんが人形を持った途端、 本当に人形に息が吹き込まれ、魂がやどり、表情が表れるのである。 嘘じゃない。 本当だ。 置いてあるときにはただの人形なのに、 人形遣いさんが持つと、人形はその瞬間に「生きる」のだ。 それを一番端的に書いているのが 12章『女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)』の解説箇所だ。 -*-*-*-*-*-*- ストーリーは単純といえば単純だ。 金の工面に困った男が、顔見知りの近所の商家に押し入り、 その家の奥さんを惨殺して金を奪って逃げる。 不謹慎な言い方をすれば、現代でもよく耳にする、実に「ありふれた」事件である。 しかしこの作品においても、「文楽マジック」は非常に有効に発動している。 たとえば、右記のストーリーを人間が演じるとしよう。 演技の眼目は確実に、「動機」をどう解釈するかに置かれると思う。 突発的な感情の高まりによる犯行だったのか、 すでにして後悔にまみれながら奥さんに襲いかかったのか。 犯行後にあっさり気持ちを割り切るのか、絶望に打ちひしがれるのか。 そういう感情の筋道を、一応は考慮に入れて演じなければならないだろう。 だが、文楽はちがう。 もちろん、大夫、三味線、人形さんは、作品と登場人物の心理を解釈し、舞台に臨むだろう。 だけどその殺人の場面を「生きている」のは、人形なのだ。 すごくすごく不思議なことなのだけれど、 生身の肉体を持たぬ「人形」というワン・クッションを通すと、 人間の演技では表現できないなにかが、純粋に形になる瞬間がある。 人形は器だ。 器である人形には、後付けの「動機」なんかないのである。 大夫、三味線、人形さんに、言葉と音楽と動きを与えられ、その一瞬一瞬を生きるだけだ。 人間だったら前後のつながりを考えながら演じなければならないが、 人形は「時間の呪縛」から自由だ。 感情や言葉から解放されている人形は、余分なものを削ぎ落とし、 「殺人の瞬間」すらもただ生きる。 つまりその時点で、 「あとから考えるに、あのときはこういう感情で殺人に及んでしまったのではなかろうか」 という「解釈」は消滅する。 残るのはただ、モヤモヤとしたものである。 人間には表現しきれない、殺人の瞬間のモヤモヤが、純化した形で舞台上に表れるのだ。 ( 三浦しをん 『あやつられ文楽鑑賞』 第12章 「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)を見る」より ) -*-*-*-*-*-*- 文楽人形と、その舞台、というのは、 私たち人間と、その住む世界、と 置き換えられるのではないかと思う。 人間は、時間の呪縛から逃れられないけれど 魂はそれに縛られない。 人間という「器」を使って、ただただ、今を「生きる」だけだ。 そこに、理由なんてない。 ただただ「生きる」。 それだけだ。 演劇を、もっともっと蒸留して、 完璧に近い形にまで純化させたものが文楽だとしたら、 それが人々を惹きつけ、熱狂させるのは当然だ。 江戸時代の人々が、皆夢中になった所以が 垣間見えた気がした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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