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Wish I could fly like a superman

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2009.12.05
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日本学術会議主催公開講演会

ダーウィン生誕200年
―その歴史的・現代的意義―

青山霊園近くの一等地にある日本学術会議で行われたシンポジウム。
一般向けの公開講演会ということもあり、全体としてはそれほど学術的ではなかったというのが率直な印象。もちろん、だからいけないということではない。

入口では、ダーウィン関係の書籍が展示されていた。

第1部は「ダーウィンの生涯と業績」と題された講演。
講演者は、松永俊男、矢島道子、小川眞里子の各氏。
第2部は、「ダーウィンの影響」と題された講演。
講演者は、富山太佳夫、横山輝雄、溝口元の各氏。
第3部は、「ダーウィンの現代的意義」と題された討論。
司会は、佐倉統、提題者が、長谷川眞理子、山田格、渡辺政隆の三氏、討論者として、1部・2部で講演をした、松永俊男、富山太佳夫、横山輝雄の三氏が加わる。

内容についてはshorebird氏がブログですばらしい要約を公開されているので、
ここでは行わず、気になった点だけを以下に少々。

一点目は、松永俊男氏がダーウィン神話の脱神話化という文脈で紹介していた日本特有の神話、ダーウィンの神学部神話について。

実際の講演では時間の関係できちんと説明していなかったと記憶しているが(記憶が曖昧なので間違っているかもしれないが)、配布資料に書かれていることを以下に引用する。

日本人の執筆したダーウィンの伝記では、ほとんどの場合、ダーウィンは牧師になるためにケンブリッジ大学の神学部に入学したと記されているが、当時、牧師になるために神学部に入学する学生など、存在しなかった。学部という表現を使うならば、ダーウィンは学芸学部に入学し、学芸学士(Bachelor of Arts)の学位を得て卒業したのである。なぜ、日本で神学部入学という間違いが生じたのだろうか。最初はクライスツ・カレッジの誤訳だったが、牧師になるためには神学を専攻したはずだという思い込みがこの間違いを広めてしまったと思われる。日本におけるダーウィン理解がずさんであったことを示す事例である。

ダーウィンには、さまざまな神話があり、脱神話化が必要だという点では全く同意するのだが(特にガラパゴス神話)、この記述には首を傾げざるを得ない。確かに、ダーウィンはケンブリッジの神学部に入学していないし、少なくともオックスブリッジについて言えば、牧師になるために神学部に入学する学生は存在しなかった。この点に異論はない。しかし、当時のケンブリッジには(オックスフォードも)現代のアメリカや日本の大学でいう意味での学部自体が存在しないのであり、「学部という表現を使うならば」と言っているので敢えて例えているのかもしれないが、ダーウィンが神学部に入学していないと同様に、学芸学部にも入学していない。ダーウィンは、現代的な意味での専攻を選ぶことなくクライスツ・コレッジに入学して大学が行う卒業試験に合格した結果、大学によってBachelor of Artsの学位を授与されたのである。当時のケンブリッジは独立したコレッジの集合体という要素が強く、コレッジにおける個別指導とともに、現在ではオックスブリッジ独特の教育システムを支えている学部における専門教育は確立途上であった。もちろん、18世紀から19世紀前半にも(欽定)教授職を中心として専門研究・専門教育を行う学部があり学位授与も大学側が担っていたが、研究・教育の中心はあくまで独立したコレッジであった。大学全体として専門研究・専門教育を行うために学部を整備し大学が現代化していくのが、社会の世俗化と科学の専門化に伴う大学改革が行われた19世紀後半だったのである。

ちなみに、神学という学問は、法学と医学と並んで中世から確立していた専門的な学問で、聖職者になるために神学を専攻するということ自体はヨーロッパでは中世から存在していたといってよい。それ以外の学問領域が基本的にArtsやPhilosophyとよばれたもので、現在でもほぼすべての学問領域で、修士号がMaster of Arts、博士号がDoctor of Philosophyなのはそういう事情による。その例外が、中世から専門的な学問として確立していた神学、法学、医学というわけである。

と現場では思ったのだが、ここら辺の話はほぼすべて松永俊男氏の著書『チャールズ・ダーウィンの生涯』には書かれている。学部とコレッジの二重システムも含めてオックスブリッジ独特の教育システム、特に19世紀当時のケンブリッジ大学のシステム、さらには、上にしるした中世以来のヨーロッパの学問の枠組みについても。字数制限や時間の関係で説明を省略したのだろうが、誤解を招くような気がする。いずれにしても、学芸学部に入学したというのは変だし、Bachelor of Artsを学芸学士と訳すのはどうなんだろう?神学・法学・医学以外はすべてArtsなのだから、単に学士でいいのではないだろうか?Artsを学芸と訳すべきだという点は全く同意なのだが。

ダーウィンが生きた時代は、少なくともダーウィンの前半生に関しては、現代とはかなり違う時代だったと考えておいた方がよい。その点が考慮されていないと感じたのが次の点である。

二点目は、矢島道子氏が強調していた「ダーウィンは地質学者である」というテーゼである。ダーウィンの時代における学問の枠組みを考慮すると、僕には、このテーゼは全く無意味に思える。確かに19世紀初頭から地質学という学問領域は存在していたが、科学の専門化を経た現代の地質学と同一視することはできない。当時の枠組みから言えば、ダーウィンはあくまで自然史(natural history)を研究していたナチュラリストなのである。

19世紀前半にオックスブリッジで行われていたオフィシャルな自然科学は、基本的に、自然を探求することによって創造に込められた神意を探る自然神学の枠組みで行われていたと言える。エディンバラ時代にダーウィンは、グラントのラマルク進化論など、大陸から入ってきたオフィシャルでない科学にも触れていたが、ケンブリッジで学んだのは自然神学の枠組みでなされていた植物学や地質学であった。19世紀前半には科学研究のオフィシャルな枠組みであった自然神学は、19世紀後半に急速に進展した科学の専門化と細分化を通じてオフィシャルな枠組みではなくなる。この科学の世俗化は、一般社会の世俗化の一側面と捉えることができるだろう。この過程における『種の起源』の位置づけはなかなか難しい問題であるが、科学の世俗化という過程における重要な一里塚とは言えるだろう。その一方で、エピグラフから明らかなように、『種の起源』がある意味で自然神学の著作として書かれている点も決して見逃してはならない。『種の起源』は自然神学の伝統を絶ち切った自然神学の著作とみなせるのである。また、科学の専門化(professionalization)、すなわちプロ化によって、科学研究は基本的に科学研究で生計をたてるプロの科学者によって担われていくことになる。進化論者としてダーウィンが活躍し生涯を終えた時代は、科学で生計を立てる必要がないジェントルマン科学者の時代が終焉を迎えた時代であり、ダーウィンは、最後のジェントルマン科学者の一人とも言えるのである。

ダーウィンが生きた時代は、イギリス社会が大きく変化した時代だったのは間違いない。そのいくつかの側面は、ダーウィンに体現された変化だと言えるかもしれない。ダーウィンが『種の起源』を発表して進化論が広まった時代は、ダーウィンが人格形成をし高等教育を受けた時代とは大きく変化してしまっていた。しかし、その変化の意味はヴィクトリア時代のイギリス社会というコンテクストに位置づけなくては理解できないだろう。この点を理解することなしに、ダーウィンを位置づけるのは困難なのである。

そういう意味で、第3部で闘わされたダーウィンの政治性・倫理性をめぐる議論は物足りなかった。主な論点は、ダーウィン理論と人種差別や障害者差別との関係をめぐるものだった。この点については議論し出すと切りがないので、ヴィクトリア時代のイギリス思想という観点から二点だけ指摘しておきたい。

まず第一に指摘したいのは、ダーウィンが、人種間の平等を支える人類の一体性(単一起源)と人種差別につながる人種の序列を同時に主張している意味を考察しなければならないということである。シンポジウムでも取り上げられていたデズモンド&ムーアが指摘しているように、「奴隷制と残虐行為に反対する神聖な倫理を保持しつつ〈低級な〉人種を貶めるというダーウィンが属していた階級の矛盾は21世紀の基準に従うと理解不可能」なのだろう。だからこそ、ダーウィンの進化理論に内包するこの緊張関係をヴィクトリア時代の思想的な力学に即して分析しなければならない。この論点は、3月のイギリス哲学会におけるシンポジウムでも少し触れたが、今後も探求していきたい課題である。

第二点目としては、現代からは見えにくいヴィクトリア時代における文明論・人種論における、新旧のねじれである。ちょっと大雑把な議論になるが、19世紀のイギリスにおいては、人間の自然的平等を前提にして文明間の差異が語られていたのがむしろ前半で、後半の方が人種の序列に基づく人種間の自然的不平等という考え方が強まったと言われている。19世紀前半は教育を通じてどんな人々も文明化が可能だという考え方が力を持っていたに対して、時代が進むにつれて人種間の自然的不平等に基づいて教育の効果に対する懐疑が強まるのである。人種論についても、人類の平等を示唆する人種の単一起源論の方がキリスト教の教義と結びついた古い議論であり、人種差別的な複数起源説が世俗化された科学に支えられているという装いを帯びた「新しい」理論として提起されるのである。現在の基準から見て政治的により望ましい理論がより古く「保守的」で、より望ましくない理論が「革新的」だったという、現在からは見えにくいねじれをきちんと理解する必要がある。デズモンド&ムーアの著作でもこの点は強調されており、ダーウィンの神聖な大義と結びつけて、反奴隷制に燃えて人間の平等に対する信念を強調していた若きダーウィンが、『人間の進化』(『人間の由来』)で人種の序列を提起するという皮肉な結末が示唆されている。もちろん、この推移は単純化された図式化もしれないが、ヴィクトリア時代のイギリスにおける複雑な思想的対立軸の一側面だとは言えるだろう。この点を含めて同時代の思想的対立軸を現代的な観点からではなく当時のコンテクストで分析すべきなのだ。

残念ながら、このシンポジウムは、この数十年で大きく研究が進展した進化理論研究とヴィクトリア朝研究の成果をふまえたものとは言えなかった。もちろん、パネリストのほとんどがこの分野の専門家ではないし、公開シンポジウムという企画の性質から言っても仕方がないのだが、一応、日本におけるダーウィン研究の粋を集めたシンポジウムなわけだからやはり残念としか言いようがない。デズモンド&ムーアの著作に描かれているエピソードをじっくり噛みしめて味わってほしいものである。まあ、僕もこんなえらそうなことを言えるほどには研究成果をあげていないので、一歩一歩地道にやっていくしかない。





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Last updated  2010.02.03 15:55:05
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