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天龍寺塔頭 南芳院の僧侶ヘンリー・ミトワ氏は。92歳になられたそうだ。『平和を願った半生を映画に』というタイトルの記事が載った。 ミトワ氏は、父柳居の酒飲み友達である。柳居は三歳年上だから生きていたら95歳になる。光華学園の理事か事務長職を務めておられた 故新田寿氏と三人でメキシカン料理とやらをよく振舞いを受けていた 当時ミトワ氏は。確か妙心寺に住んでおられた様に記憶している。柳居子も一度だけお相伴に預かった事があった。 日本人の血が混じっているとは言っても 外見完全な外人白人種である。戦前ドイツ系アメリカ人の父に連れられ米国に帰国中 日米戦争が勃発して日本へは戻れなくなり、日系人収容所へ放り込まれた事がトラウマとなり長い人生に影を落とす。電子関係の優秀な技術者と聞いていたが既に仏門の人 新田氏とのご縁は仏教結縁かと思うのだが ミトワ氏の娘が確か光華学園に入学してのご縁か 確かめる事でもない。 混血出自も内在してはいるが、どの国に住んでも異国 その人の心の構えが微妙に影響する。九十歳を越えてどの様な心境の変化が有ったのかは知らぬが、 映画を作る監督中村高寛氏は『平和を訴えるとか 戦争が何故なくならないのかを問いかけるドキュメンタリ映画を作る』と言う。 ミトワ氏をある種の世捨て人と見ている柳居子には、声高に戦争反対のアクションを起こした事も無ければ、イデオロギーの問題提起をしたことも無い人が何故 今 突然と言う思いが強いのである。かなりこのドキュメンタリー映画難しそうと言うのが柳居子の偽らざる思いである。若いときのほんの暫くの収容所体験がどの様にフィルムを廻しても人々を平和への思いに訴える力としては細いと言う事だ。 先年 ミトワ氏と俵屋旅館女将 佐藤年さんとの対談記事が雑誌に載った。佐藤さんの旦那さん 写真家故アーネスト・サトウ氏もミトワ氏とよく似た出自・経歴の持主 アーネストもそう言えば 大徳寺高桐院で仏前結婚式を挙げた 偶然それを見ていた 篠田 正浩氏が岩下志麻氏と同じスタイルの挙式をした。ミトワ氏と関係のないところへ逸れて行きそうだ。 もし ドキュメンタリー映画がクランク インしたら監督に伝えたいことがある。商業ベースに乗せられるという可能性は小さいと柳居子思う。 平和願った半生、映画に 米で収容所生活の僧侶太平洋戦争中、米国の日系人収容所で過ごした、京都市右京区の天龍寺塔頭南芳院の僧侶ヘンリー・ミトワさん(92)の生涯を描いたドキュメンタリー映画の制作を京都や横浜の映画関係者たちが進めている。「ミトワさんの言葉から、平和への思いがにじみ出るような映画にしたい」という。 ミトワさんは1918年に横浜で、米国の映画会社勤務の父親と日本人の母親の間に生まれた。40年に米国に渡った父を訪ねて渡米。太平洋戦争が始まり、米国内の日系人収容所で42年3月から46年11月まで過ごした。「無抵抗なのに見張り台から銃を向けられ続けた」と収容所生活を振り返る。収容所内で日系人の女性と結婚し、長男と長女が生まれた。 61年に来日し、妙心寺(右京区)で出家、73年、天龍寺に移った。年齢を重ねるとともに、自身の半生を振り返り、平和への思いを記録や映像で残したい、との思いが強くなったという。 ミトワさんの願いを伝え聞いた、京都造形芸術大映画学科の林海象教授(54)が、ミトワさんの人生や思想を描くドキュメンタリー作りを企画、交流のあった映画監督中村高寛さん(36)=横浜市=に協力を依頼した。スタッフ4人で6月に撮影を始め、8月から同大学映画学科の学生らも協力している。 ミトワさんへのインタビュー、ミトワさんが持つ戦前・戦時中の写真などの資料、京都で僧侶として生きる姿などを中心に撮影している。来年夏以降の完成を目指すという。 中村さんは「戦争がなぜなくならないのか、問いかける作品にしたい」と話し、林さんは「ミトワさんの人生を一つ一つひもといていきたい」としている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.09.07 06:57:15
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