カテゴリ:燃える指(完結)
愛しきはその叫び~奪い取る者
冷たい灰色の部屋の真ん中にグランドピアノがポツンと置かれていた。温かみも調和を忘れ去ったような部屋。アナトールの弾くピアノの音が部屋中に響き渡る。グランドピアノの上に横たわるのは幸彦だった。引き裂かれたシャツに血が滲んでいる。こめかみも血に染まっている。幸彦が意識を取戻したのを感じたのか、アナトールはピアノを弾く手を止めた。 「術より薬の方が効くでしょう?キミには」 頭が朦朧としている。手足が重く身体の自由がきかない。冷たいピアノの感触が背中に感じられる。幸彦はようやっと声を出した。 「ピアノ・・僕がいると蓋が開かないよ」 「いいのです。全部開けて弾くと、皆が嫌がるのでね」 アナトールは立ち上がり、ゆっくりと歩き、幸彦の側に立った。そして幸彦にのしかかり動けない幸彦の頬に触れた。幸彦は彼の邪悪な意識の裏に、何かを感じた。孤独、絶望、そして助けを求めるか細い魂の声・・・ 「あ!」 幸彦はびくりと震えた。アナトールの手が彼の身体をまさぐり始めたのだ。幸彦の剥き出しの胸にアナトールは手を置いた。心臓をいきなり鷲掴みにされたような感覚がして、苦しさのあまり幸彦の身体が反り返った。息が止まった。 「”刻印”がないキミは、僕らの本当の敵ではないけれど、美味しい餌には変わりない」 アナトールに触れられた所から、幸彦の生気が吸い取られていくようだった。幸彦は意識がますます朦朧として来た。アナトールの手が離れた。幸彦は荒い息をした。 「アナトール・・僕を殺さないの?」 アナトールは楽しそうに言った。 「すぐには殺しません。キミが気に入ったのでね。少しずついただく事にします」 そう、キミが僕の名を呼んだ時、僕は決めたのだ。キミのどこかに僕の欲しいものがあるのだ。キミの母親のように一気に食うのはもったいない。 神内の書斎は狭い。神内とマサト、竹生と三峰、火高だけでほぼ満員だった。神内はテーブルの上に地図を広げて一箇所を指差した。 「”壁”からの連絡で『奴等』の通った場所はわかった。その先にあの異人のアジトがある」 『奴等』が力を使えば壁が感じとる。 「アジトって、神内、TVじゃないんだからさ」 マサトは面白そうに言った。 「お前と違って、俺はボキャブラリーが少ないんだ」 神内は憮然とした面持ちで言った。マサトはふざけているのではない。幸彦を奪われた失態に悔やむ盾達に、これ以上プレッシャーを与えたくなかったのだ。マサトが真面目になれば彼等はますます緊張する。彼等が冷静な判断を常に保てる状態にしておきたかったのだ。マサトは続けた。 「それはあの金髪の家だけど、地下から奥は別の領域だな」 「そこの”壁”だけ一時的に穴を開けて通路を作る」 「誰の壁だよ、平気なのか?そんな事して」 「恵美子が責任を持つと言っている」 「セバスチャンの壁か・・・」 十五年前の苦い記憶がマサトの脳裏をよぎった。アナトールの背信で壊れた壁を命をかけて封印したセバスチャン。その壁を壊さねばならぬのか。神内は続けた。 「人数はそんなに入れない。盾は精鋭の者を集めろ」 三峰は頭を下げた。マサトは昼の痛みに耐えている竹生に声をかけた。 「竹生」 「はい」 「幸彦を感じるか?」 「はい、まだご無事です」 それが唯一の救いだった。幸彦がどこにいても感じとる。それは盾としての能力ではない。あの夢を共有した為だろうか。理由はわからないとしても、今の竹生にはどうでも良かった。自分が感じる幸彦の存在がまだ消えていない。それだけで良かった。 「まだ食われてないって事だ。俺はお前達と一緒に行く」 マサトは神内を見た。 「悪いな、そっちを留守にして」 「お茶菓子の文句を言われない分、サギリもほっとするだろうよ」 「戻ったらケーキ位買っておくように、言ってくれよ」 「呆れるあいつの顔が目に浮かぶようだ」 「お前のネクタイの換えは、いつも用意しておくのにな」 「日頃の行いの差だ」 マサトは神内のわき腹を小突く真似をした。 灰色の小さな部屋に幸彦は幽閉された。アナトールと異人達の繰り返される責め苦の中で、どのくらい過ぎたのかも解らぬ時が流れた。今は薬がなくてもほとんど身体を動かす事も出来ない。異人はほとんど言葉を話さない。しかしアナトールは他の異人とは違った。折を見てこの部屋で彼と二人で何かを話す。親しい友人のように、ぐったりとした幸彦の肩を抱いて、子供時代の事、音楽の事・・幸彦が聞いていようといまいとかまわぬように、色々と独り言の様に話すのだ。それがどういう事であるか考えるのも億劫な程、幸彦は弱っていた。ぼんやりとした頭で幸彦は思っていた。どちらしても彼は僕を食い尽くす。お母さんのように。苦痛は短い方がいい。 「アナトール、僕を殺して・・今すぐに」 アナトールは幸彦をあやすような口調で言った。 「そんな事を言わない方がいいですよ。死は遅かれ早かれやってくる」 幸彦の苦痛を楽しむように、アナトールはその手で幸彦の身体を弄る。苦痛と遠くなる意識の狭間で、幸彦は次第に失われていく自分の命を感じていた。 アナトールの手が止まった。苦痛から解放された幸彦はアナトールが何かに気を取られているのを知った。何だろう。寄せた眉根に不機嫌の影が見える。『奴等』からの声だろうか。今の幸彦には何もわからない。何も感じず、何も出来ない。ここは彼等の領域なのだ。アナトールは幸彦から離れ、扉の方へ歩き始めた。 「キミとゆっくりしていたかったけれど、どうもそうもいかないようです」 暗い洞窟を走っていたマサトが立ち止まった。 「竹生」 「はい」 「幸彦を感じるか」 「はい」 「ここから先は負の感情が強すぎる。他の盾は心がもたない」 人ならざる身である竹生は彼等に近い分、まだ耐えられるとマサトは考えた。 「一人でいけるな」 「はい」 竹生ははっきりと答えた。そして己の感覚の示す方へ飛ぶ様に走って行った。マサトは振り返ると他の盾達に言った。 「お前達、騒ぎを起こすぞ。もし耐えられないと思ったら、すぐにこの場から退け。無理をして心を取られるな」 三峰と火高が左右に走った。”異人”の気配が増えた。かなりの数がいる。 「いけ!」 マサトから発した青い閃光が四方に散り、異人を貫いた。盾達が異人の群れに目掛けて突進した。 半ばうつ伏せるように、幸彦は床に横たわっていた。裸の背中も肩も傷だらけだった。 「竹生・・」 「幸彦様、お可愛そうに。さあ、参りましょう」 竹生はマントを脱ぐと幸彦の身体を包んだ。 「駄目・・僕・・動けないんだ」 「私の背中に」 「でも」 「かまいません」 どさりと幸彦の身体の重みがかかると激痛がやってきた。竹生は歯を食いしばった。 「走ります。どうかつかまっていて下さい」 痛みに耐え、脂汗を流しながら、竹生は走った。ここへは他の盾は入れない。負の感情が強すぎるのだ。心を取られてしまう。だが人でない竹生は、それゆえに耐えられるのだ。幸彦の身体に触れている背中の痛みに気が狂いそうになる。 「竹生、辛いだろう・・」 朦朧とした意識でも幸彦は竹生の痛みを理解している。 「いえ、お気にせずに」 貴方を失う方が、もっと辛いのです。竹生は痛みと共に伝わる幸彦のぬくもりを自らの支えとして、走り続ける。敵に見つかれば、万事休すだ。 (マサト様達が時間を稼いでいる間に・・) 竹生は必死で走り続けた。 正面から駆けて来る影があった。今狙われたら勝てない。竹生はそう思いながらも歩を緩めなかった。 「竹生様!」 それは火高だった。 「どうしてここへ来た」 「幸彦様は私が」 火高は竹生の背から幸彦を自分の背中に移した。 「急ぎましょう」 彼等は出口へ向けて再び走り出した。走りながら火高は言った。 「私も少しこちらに近くなったようです」 竹生に噛まれ血を与えるうちに、彼の身体にも変化が来たしたというのか。 「すまない」 「いえ」 二人は更に足を速めた。 グランドピアノの傍らにアナトールは立っていた。 キミの命・・もう少し生き延びておくれ。僕はまだキミを死なせたくないんだ。『奴等』は怒るけれどね。また僕の名前を呼んでおくれ。キミは僕に食われながら僕を恨まなかった。だから僕はもう少しだけ、キミを生かしておいてあげる。アナトールはグランドピアノの蓋をすべて開けた。椅子の具合を確かめ、彼は弾き出した。激しい調べを哀しい音で。僕の弾くはずだった旋律・・僕のものだったはずの未来・・セバスチャン、僕らはどこからすれ違ってしまったのだろう。ねえ、セバスチャン、もう一度キミに逢いたいよ。 異人達の動きが急に鈍くなった。何が起きたのだろう。今は原因を考えるより先にやる事があった。奥から走って来る竹生と火高の姿が見えた。マサトは叫んだ。 「戻るぞ!」 一同は後退して、”壁”の穴に飛び込んだ。穴は瞬時に塞がれた。 掲載小説のまとめサイトはこちらです お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/12/20 02:27:51 AM
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