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貴方の仮面を身に着けて

貴方の仮面を身に着けて

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2006/07/05
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残照は笑う


朝の奥座敷で、舞矢は間人に別れを告げた。間人はもう泣かなかった。言葉はいらなかった。二人を同じ夢が繋いでいたから。間人の想いはきらきらと金色に光り、舞矢の中に流れ込んだ。忍野が奥座敷まで舞矢を迎えに来た。忍野は舞矢を朱雀の元に送り届け、篠牟と御岬を連れて佐原にとんぼ返りする予定だった。忍野は人目に付かない様に裏門に車を用意していた。舞矢の帰還に関しては何もかもが密かに運ばれた。見送りに来たのは間宮だけだった。間宮も何も言わず、無念そうな表情で舞矢を見て、頭を下げた。舞矢は黙って微笑んだ。

顔を上げると遥かに山々が見え、その手前にはのどかな農村の風景が広がっていた。不意に舞矢の中心から暖かいものが広がっていった。それはどんどんと広がり、遂には佐原の村すべてを包むように、舞矢には思えた。舞矢は自分の腹に手を当てた。この子は佐原の大切な子だ。幸彦を通して私は佐原の村と結ばれてこの子を得たのだ。この子は佐原の皆の子だ。幸彦の子だけれど、朱雀の子でも間人の子でもあるのだ。この子は皆の希望なのだ。

舞矢は間人の金色の夢に語りかけた。私は強く生きる。この村に希望を残す為に。朱雀はその為にいる。この村の希望を守る為に。今、私を包む力は佐原の力。佐原の村は私を守ろうとしてくれている。何があっても私はここに帰って来る。その時まで、さようなら・・間人。間人はうなずいた。ええ、お待ちしております。佐原の土地に選ばれた方よ、私の大切なお姉様。

忍野は助手席に乗り込んだ。運転手は若い盾だった。車が走り出すと、舞矢は後部座席で目を閉じた。

あのマンションに着いた。忍野は丁重にドアを開け、舞矢を車から降ろした。誰も出迎えはいなかった。舞矢は一人、中へ入った。最上階でエレベータが止まり、舞矢は廊下に出た。その奥に扉が見えた。暗い臙脂色の絨毯を踏み、舞矢はゆっくりと奥へ進んだ。扉を開けたのは朱雀自身だった。あの日と同じように。今日は薄いベージュの背広をきちんと身に着けていた。絨毯と同じ臙脂色のネクタイが襟元に見えた。朱雀は厳かな顔をしていた。その髪は雪山のように白く、淡く輝いていた。あの日と同じに、朱雀は無言で身体を退け、舞矢を中へ入れた。先へ進む朱雀の背中には、ひたすらに静かな気配があるのみだった。それはあの精力的な”社長”ではなかった。これが朱雀なのだと、舞矢はその背中を見て思った。


昨夜、三峰は舞矢を朱雀の元に行かせる事を幸彦に告げた。神内の席に座ったまま、幸彦は、自分の前に優雅な物腰で立っている三峰に、怒声を浴びせた。
「命令を守らないつもりか」
「舞矢様を村から出しました。ここへも来させません。これ以上、何をお望みですか」
「三峰、僕に逆らうのか」
「朱雀は盾ではありません。我らと元々違う者です」
「では、朱雀の元にいる盾を全員引き上げさせろ。舞矢は朱雀に守らせればいいだろう」
「今の朱雀に、それだけの力はありません」
三峰は幸彦を見た。そのまっすぐなまなざしに耐え切れず、幸彦は横を向いた。三峰はこれ以上、何を言っても無駄であるのを悟った。三峰は覚悟を決めた。
「舞矢様のお腹にはお子様がおいでです」
三峰の目に負けて横を向いた悔しさもあり、不機嫌に幸彦は言った。
「僕の子とは限らないだろう、朱雀の子かもしれない」
三峰の目が鋭くなった。
「夢の力を持つ方です。朱雀の子ではありえません」
「何だって」
幸彦は立ち上がった。三峰はくるりと幸彦に背を向けた。
「では、すべての”盾”に引き上げさせます」
「待て」
三峰は立ち止まらず、出て行った。


三峰の言葉に、朱雀の部屋に集められていた盾達はどよめいた。誰もが不服であった。朱雀は熱の下がらぬままに、安楽椅子に座ってそれを聞いていた。今やここにいる盾達は全員朱雀の身体について知っていた。それだけに命令に対して、理不尽さを感じていた。朱雀は椅子の背にもたれたまま、苦しい息の下で言った。
「ご命令なのだ、皆、引き上げるのだ」
磐境(いわさか)は三峰に言った。
「私は盾である事を捨てます。ここで朱雀様をお守り致します」
進士(しんじ)も言った。
「私も最後まで朱雀様にお仕えいたします」
居並ぶ他の盾達も口々に言った。
「そんな命令を聞く位なら、私は盾である事をやめます」
「私もです」
三峰は無表情のまま言った。
「お前達は盾でなくなると言うのだな」
多数の決意した目が、三峰を見ていた。三峰は言った。
「分かった、お前達は盾ではない。ここには盾は一人もいなくなった。ご命令は果たされた」
朱雀は身体を起こした。
「三峰、お前」
「私は人ではない。人の道徳や倫理などどうでも良い。私の願うのは、佐原の村に希望を残す事だけだ」
「いや、駄目だ」
朱雀は居並ぶ者達を見渡した。その目には不思議な強靭さがあった。
「皆の気持ちはうれしく思う。だが盾で無くなれば、村へ戻れなくなる。私の様に故郷を失った者をこれ以上増やしたくはないのだ。その辛さを私は知っているのだから」
何か言おうとした磐境を、朱雀は目顔で制した。
「お前達には、家族が、友が、村にいるだろう。私の為に彼らを哀しませてはならない」
朱雀は毅然と言い放った。
「私に従うというのなら、私は命令する。お前達は全員ここから去れ」
盾達はうなだれた。三峰はやはり無表情のまま、朱雀を見、そして目を伏せた。


居間に先日の戦いの痕跡は見あたらなかった。朱雀は立ち止まり、振り向いた。向き合うと微かな青く甘い香りがした。懐かしい朱雀の香りだった。舞矢は朱雀を見上げた。朱雀の瞳は澄み切っていた。佐原の山の彼方に見えた空の様に。
「ここには、私しかいない」
「朱雀」
朱雀は微笑んだ。それも懐かしい朱雀の微笑だった。
「今は二人きりだから、その名を呼んでいい」
それ以上何も言わず、二人は黙って見つめ合っていた。朱雀の髪は朱雀の命が尽きかけている事を示していた。舞矢はそれを知っていた。そして朱雀も舞矢がさゆら子様の妹だと知っていた。ここに異人が攻めて来れば、それですべてが終わる事も、二人は知っていた。それでも二人は互いを見ていた。

夕暮れの太陽は傾きながら、大きな硝子窓から射し込み、二人を赤く染めた。朱雀が言った。
「もう一度、私を朱雀と呼んでくれないかね」
その声も澄んでいた。舞矢の中で、佐原から自分を包んでいた暖かさが、再び広がるのを感じた。そして舞矢は心の奥で呼びかける声を聞いた。それはひとつの名前だった。誰の名か、舞矢には解った。舞矢はその名を唇に乗せた。それは遠い人の声ではなく、舞矢自身の心からの声だった。
「たかあき・・」
朱雀の目が大きく見開かれた。突風に二人の髪が舞い上がった。高明(たかあき)、それは朱雀の本当の名だった。
「どうして、それを」
舞矢は言った。
「佐原の村が教えてくれた」
朱雀の唇が震えた。見開いた目が光を含んで揺れた。
「そうか、それが村の意志なのか」
朱雀は舞矢を抱きしめた。
「そうか、そうなのか。私に君を守れと・・舞矢」
舞矢は初めて朱雀が自分の名前を呼ぶのを聞いた。
(私がキミの名を呼ぶ時は、すべてを捨てる時だろうな)
舞矢は朱雀の言葉を思い出した。
「たかあき・・」
「そうだ、私は君の為にすべてを。失った人の身代わりでもなく、過去のつぐないでもなく、今ここにいる舞矢、君の為に戦おう。私は気がついていたのに、それに気づかぬふりをしていたのだ。自分自身さえ、欺いて」

舞矢は朱雀の腕の中で幸福だった。やっと朱雀は舞矢自身を見てくれたのだ。さゆら子の影から舞矢は解放されたのだ。異人になった兄がやって来れば、そこですべては終わる。それでも最期の時まで、私達は互いの名を呼び合うだろう。愛する者の名を。

たとえその時が、あまりに短いとしても・・

世界は夜に向かい、わずかに赤く残る太陽が二人を照らしていた。その光すらももはや消えようとしていたが、二人は固く抱き合ったまま、立ち尽くしていた。



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Last updated  2006/07/05 03:41:06 AM
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