カテゴリ:絶対存在論
神の存否-285
デカルト哲学は現代文明を創造したとも云われる程にその後の思考方法に影響を与えたといえます。彼の方法序説論の思考方法は、現代でも研究者が研究する時に使用する思考方法です。それに対し、スピノザはアルバート·アインシュタインが愛した哲学のようで自然その物を神と思考しています。知性を説明するか、本質を観察する力を説明するのかの立場は似て非ならずの相違があります。此の「似て非なるもの思考・思想・宗教」が却って厄介になり、却って異質な思想より対立・抗争を煽ることは史実が証明しています。 この部第二部定理四九の系・証明に次いで長文の備考の後半部一 しかし前定理をいっそう詳しく説明するため に二乃至三の注意すべきことが残っている。なおまた、我々のこの説に対してなされうる諸々の反対論に答えることが残っている。最後に、すべての疑惑を除去するため、この説の二乃至三の効用を指摘することを徒労ではないと私は考えた。二乃至三のと私は言う。なぜなら、主要な効用は、第五部 知性の能力あるいは人間の自由について、で述べることからいっそうよく理解されるであろうからである。 そこで第一の点から始めるとして、私は読者に、観念あるいは精神の概念と、我々が表象する事物の表象像とを、正確に区別すべきことを注意する。それから観念と、我々が事物を表現する言葉とを、区別することが必要である。なぜなら、この三者すなわち表象像、言葉、観念を多くの人々がまったく混同しているか、そうでなければ十分正確に区別していないか、あるいはまた十分慎重に区別していないかのために、意志に関するこの説は、思索のためにも、しいては学問のためにも、賢明な生活法樹立のためにも、ぜひ知らなくてはならぬことであるにもかかわらず、まるで彼らに知られていなかったのである。実に彼らは、観念を、物体との接触によって我々の中に形成される表象像であると思っているがゆえに。我々の脳髄に何の痕跡も印しえない事物、すなわち我々がそれについて何ら類似の表象像を形成しえない事物の観念は、実は観念でなく、我々が自由意志によって勝手に造り出す想像物にすぎないと信じ込んでいる。だから彼らは観念をあたかも画板の上の無言の絵のごとくに見ているのである。そしてこの偏見に捉われて、彼らは観念は観念である限りにおいて肯定ないし否定を含んでいるということに気づかないのである。次に言葉を、観念あるいは観念が含む肯定と混同する人々は、自分が感覚するのと反対のことを単なる言葉だけで肯定ないし否定するたびに自分は自分の感覚するのと反対のことを意志することができると信ずるのである。 しかし延長の概念を全然含まない思惟の本性に注意する人は、これらの偏見から容易に脱することができるであろう。そして彼はこのようにして、観念は思惟の様態であるがゆえに、観念が物の表象像や言葉に存しないことを明瞭に理解するであろう。なぜなら、言葉および表象像の本質は思惟の概念を全然含まない単なる身体的運動に基づくものだからである。 哲学・思想ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月09日 06時02分26秒
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