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Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年03月04日
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カテゴリ:絶対存在論


ルドルフ・シュタイナー 初期哲学論文-16
真理と学問
Ⅵ:無前提な認識論とフィヒテの知識学 1-3
 フィヒテはかつて、正しい洞察に極めて近づきさえした。フィヒテは 1797 年の『知識学への序論』の中で、二つの理論体系、即ち、自我が物によって規定されているとしておく独断論と、物が自我によって規定されているとしておく観念論があると考えている。フィヒテの視点によれば、両者が可能的な世界観であることは確かである。一方は他方と同じく首尾一貫した展開を可能にするとされている。しかし、我々が独断論に身を委ねるならば、自我の自立を断念しなければならないし、自我を物自体に依存させねばならない。我々が観念論を信奉するならば、我々は逆の場合になる。一方或いは他方の哲学者が二つの体系のどちらを選びたいと思うかを、フィヒテは、自我の好みのみに判断を任せる。しかしフィヒテによれば、自我がその自立性を保ちたいと思うならば、自我は我々以外の物への信仰を廃棄し、そして観念論に身を委ねるのだそうである。ところで、自我が自我を助けて決定や規定をするものにする何かを前提としないならば、自我はもちろん現実的で基礎付けられた決定と規定に全く至りえないという考察のみが僅かに足りなかっただろう。この一連の思惟は一つだけ考察し落としている。つまり、自我がそうすることを可能にする何かを自我が前提しないのであれば、自我はなんらかの現実的な基礎づけを持ついかなる選択や決定に至ることができないということである。自我に与えられたものの規定を可能にし、それによって観念論と独断論の間での選択をさせる何か内容の豊かなもの、全く何か規定されたものを、自我が見出さないならば、自我による一切の規定は、空虚で内容の無いままであろう。しかし、この全く内容の豊かなものは、思考の世界である。そして与えられたものを思考によって規定することは、認識である。我々が好きな箇所でフィヒテの著作を扱おうとも、我々がフィヒテにおいて全くおぼろげで空虚な自我の活動を、我々が認識プロ
セスと呼んだものによって満たされ規制されていると考えるならば、フィヒテの考えの筋道が直ちによく練られたものになることを、我々はいたるところで見い出すのである。自我が自由に活動することができるという事態は、自我自身から自己規定によって認識のカテゴリーを現実化することを自我に可能にする。それに対して、それ以外の世界では、カテゴリーは客観的な必然性によってカテゴリーに対応する与えられたものと結びついていることが明らかになる。自由な自己規定の本質を探求することは、我々の認識論に支えられた倫理学と形而上学の使命であろう。この倫理学と形而上学は、自我が認識の外のそれ以外の理念をも現実化できるかどうかという問題をも論究しなければならないであろう。しかし、認識の現実化が[自我の]自由によって生じることは、前記でなされた寸評か
ら既にはっきりと明らかになっている。というのも、直接的に与えられたものとそれに必要な思考の形式が自我によって認識プロセスの中で統一されるならば、そうでなければ常に分かれたまま意識に残る現実の二つの要素の統一は、自由の営みによってのみ生じうるからである。しかし、我々の詳論によって、なおも全く異なる仕方で光が批判的観念論に投げかけられる。フィヒテの体系に詳細に取り組む者にとって、そもそも自我自身によっては措定されないものが、外から自我へは入ってこられず、自我の中では現れないという命題を維持することは、この哲学者の中心問題であるように思われる。しかし、今やいかなるどの観念論も、我々が直接的に与えられたものと呼んだ世界内容のあの形式を、自我から導き出すことはできないということは疑う余地がない。この形式は、まさしくただ与えられ、決して思考の内から構成されえないのである。我々に他の一切の色見本が与えられたとしさえも、たった一つの色彩の微妙な違いさえ単に自我から補充することも、我々は成し遂げられないであろうことだけは、やはり吟味してほしい。たった一つの影を除いてあらゆる色彩が我々に与えられたとしてさえも、自我のみからこの影を提供しはじめることはできないだろうということだけは、よく考える必要がある。我々が像を作るための諸要素を、それまでに個人的に与えられたものとして体験した場合、我々が一度も見たことがない、極めて遠くの地域の像を我々は作ることができる。その場合我々は、与えられた手ほどきに従って我々が体験した個々の事実から像を組み合わせる。そして我々は、我々に与えられたものの領域の中には一度も存在しなかった唯一の知覚の要素だけでさえも我々から紡ぎだそうと無駄に努力するだろう。しかし、与えられた世界を単に知っていることは、別の事柄である。世界の本質を認識することはまた別の事柄なのである。我々が現実を与えられたものと思考そのものから構築することなしには、世界の本質を認識することは、そのことが密接に世界内容と結びついているにもかかわらず、我々にははっきりしなくなる。所与が本来「何であるか」は、自我にとって世界の本質を認識することそのものを通じてのみ措定される。しかし、自我が最初に自分自身に向き合って事物を全く無規定的な方法で見ないならば、自我は、所与の本質をそれ自身において措定する契機を全く持たないことになってしまうだろう。つまり、世界の本質として自我によって措定されるものは、自我なしにではなく、同じ自我によって措定される。現実の真の形態は、現実が自我に向かってくる時の最初の形態ではなく、自我が同じ現実からつくる最後の形態である。最初の形態は、客観的な世界にとっておよそ重要ではなく、そのような形態は認識プロセスにとって基礎でしかないのである。つまり、主観的な形態は、世界の理論が与える世界の形態ではなく、むしろ自我に最初に与えられているあの形態なのである。フォルケルトなどの例にならって、この所与の世界を経験と呼びたいならば、次のように言わなければならない。即ち、学問は、我々の意識という設備によって主観的な形態において経験として現れる世界像を補完して、この世界像が本質的にそうであるものにするのだと。 我々の認識論は、言葉の真の意味で自ずから理解される観念論の基礎を提供する。この認識論は、思考において世界の精髄が媒介されるという確信を基礎付ける。世界内容の諸部分の関係は、それが熱せられた石に対する太陽熱の関係であれ、自我の外部世界に対する関係であれ、他ならぬ思考によって明示されることができる。思考においてのみ、全ての事物がそれらの関係において相互に規定する要素が、与えられている。カント主義がなおなしうるかもしれない反論は、前記で特徴づけた所与の本質規定はやはり自我にとってそのようなものでしかないということであろう。それに対して我々は、我々の根本的な見解の意味で次のように応えなければならない。もちろん、自我と外部世界の分裂も所与の内部でしか存立せず、つまりあの「自我にとって」は、全ての対立を統一する思考によって考察することにとっては意味がないのだと。外部世界から分割されたものとしての自我は、思考による世界観察において完全に沈潜する。つまり、自我にとってのみの諸規定について語ることはもはや全く意味を持たないのである。

参照画:Johann Gottlieb Fichte




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最終更新日  2024年03月04日 06時11分31秒
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