カテゴリ:絶対存在論
神の存否-296
第三部定理二の備考でスピノザは心身合一・一元論を他者を模したり、思索的に顕したのではなく、あくまでも自己の経験からのものであることを強調します。 備考の前半 このこと(思惟の属性と延長の属性のあり方)は第二部定理七の備考(要約 無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは単に唯一の実体に属しているということ、したがってまた思惟する実体と延長した実体とは同一の実体であって、それが時にはこの属性のもとにまた時にはかの属性のもとに解されるのであるということ、これである。同様に、延長の様態とその様態の観念とは同一物であって、ただそれが二つの仕方で表現されているまでである云々。)で述べたことからいっそう明瞭に理解される。それによれば、精神と身体とは同一物であってそれが時には思惟の属性のもとで、時には延長の属性のもとで考えられるまでなのである。この結果として、物の秩序ないし連結は、自然がこの属性のもとで考えられようとかの属性のもとで考えられようとただ一つだけであり、したがって我々の身体の能動ならびに受動の秩序は、本性上、精神の能動ならびに受動の秩序と同時であるということになる。このことはまた我々が第二部定理一二(人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。)を証明した仕方からも明らかになる。 事情はかくのごとくであってこれについてはもはや何ら疑う理由が残っていないにもかかわらず、もしこのことを私が経験によって確証しない限りは、人々にこれを冷静に熟慮するようにさせることはまずできない相談であろう。それほどまでに根強く彼らはこう思い込んでいる。身体は精神の命令だけであるいは運動しあるいは静止し、そして彼らの行動の多くは単に精神の意志と思考の技能にのみ依存していると。これというのも、身体が何をなしうるかをこれまでまだ誰も規定しなかったからである。言いかえれば、身体が、単に物体的と見られる限りにおける自然の法則のみによって何をなしうるか、また精神から決定されなくては何をなしえないかを、これまで誰も経験によって確定しなかったからである。 哲学・思想ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月20日 06時03分00秒
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