餃子の名店
先日銀座のビジネスホテルに滞在した折、少年時代両親に連れて行ってもらった餃子店、銀座の天龍を探してみた。かっての店舗はもうなかったが、新築のビルにちゃんと納まっていた。連れが二人いたので単独行動をするわけにもいかず、今回は所在を確かめただけで、あの餃子を食するのは諦めるしかなかった。逢引を果たせなかった銀座の雨の日からおよそ一月後、ある日曜の夕方名古屋の街を彷徨っていた。名駅前に新しくできたゲートタワーモール、以前は松坂屋のあったところにどういうわけか松坂屋を無視して建てられたショッピングビルのレストラン案内を眺めていた。そこに銀座天龍の名があるではないか。何時間待つことになろうと今日は思い出の人と逢わないわけにはいかなかった。天龍の餃子は大きい、通常の店の餃子の三倍以上はあるだろう、肉の量に限れば四倍以上かもしれない。大きさだけではない、醤油などをつけなくても旨みたっぷりで厚めの皮に噛み付くと中から流れ出てくる汁と絡まった食感は、他で味わうことはできない。満喫して会計を済ませるとき店長に訊いてみた、「60年前に銀座の天龍によく連れて行ってもらっていたんですが、同じ天龍ですよね?」そうです、いつもありがとうございます、という軽い返事だったので調子に乗って質問を続けた。「関取の天竜さんのお店ですよね、いつも店のレジで座っていらした。天竜関は力士としてはどこまで行ったのですか?」さあ、それは知りません、と店長は今度は素っ気なかった。ウィキペディアによると、天竜は貴乃花以上の革命児だった。1932年に出羽海部屋の32名の力士が中華料理店「春秋園」に立てこもり日本相撲協会に対して力士の待遇についての改革を要求した、いわゆる春秋園事件、その首謀格だったのが天竜だった。協会の回答を不誠実として天竜たちは「新興力士団」を結成、残った力士の一部も別のグループ「革新力士団」を結成、事態は泥沼化した。その後、日本相撲協会からの切り崩し、組織の意思決定の問題、分裂、興行継続の困難などを乗り越えることができず、最終的に天竜も協会に復帰した。その後責任を取って廃業し、相撲協会の仕事やラジオ解説者の仕事のほか、餃子料理店「銀座 天龍」も開業した。力士としての最高位は関脇だった。名駅の店長はひょっとすると天竜関と春秋園事件のかかわりのことを知っていたのかもしれない、知っていたが触れたくなかったのだろうか。僕のようなへそ曲がりの人間は、日本相撲協会に楯突いた天竜の勇気ある行動も含めて彼の伝記的な事実を店で紹介してくれたらいいのにと思ったりする。