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前回紹介した「ジャッカルとアラブ人」を読み解く前に、背景を少し知っておこうと思う。
カフカが生まれ(1883年)育ったのはプラハ、オーストリア=ハンガリー帝国の一主要都市、ハプスブルク家の黄昏時だった。プラハのあるボヘミアはチェコ人の土地でもとは有力な王国だったが、16世紀に自国の王の戦死により、王女の結婚先だったオーストリアのハプスブルグの一部となった。19世紀末には、チェコ語住民が90%以上を占めていたが、ドイツ語を話す中流以上の住民も一割弱はいた。 カフカ家は中流の同化ユダヤ人で主としてドイツ語を話したが、父・Herrmannは従業員15人の小売業を営み、顧客の大半はチェコ語住民だった。高まりつつあったチェコ人の愛国・独立・反ドイツ運動の被害に遭わないように、ドイツ的に過ぎるHerrmannという綴りからrとnを一つづつとってHermanとしていた。カフカもチェコ語には堪能だった。 長い間抑圧・差別されてきたユダヤ人が、ヨーロッパで最初に自由と平等を与えられてのは1791年のフランスだった(これ以前、1264年にポーランドではユダヤ人の権利が認められていた)。19世紀に入ると、そのほかのヨーロッパの国々でもユダヤ人に対する政治的自由と平等が徐々に確立されてきた(オーストリア=ハンガリーは比較的遅く1867年)。しかし、民衆のレベルに滞る差別感と不信感はそう簡単に消えることなく、反ユダヤ感情の爆発があちこちで起きていた。例えば、1882年Tiszaeszlár事件(ハンガリー農村の少女の死で起きた反ユダヤ感情による冤罪事件)、1897年Hilsner事件(ボヘミアで起きた、チェコ人少女の殺人に関わる反ユダヤ感情による冤罪事件)がある。もちろん、1894年にフランスで起きたドレフュス事件もその一つであった。 ウィーンの新聞「Neue Freie Presse」のパリ特派員だったテオドール・ヘルツルは、そのドレフュス事件の取材でフランス民衆が「ユダヤ人に死を!」と叫ぶのを目の当たりにし、これはどうしようもない不治の病だ、と感じたのだろう、1896年に「ユダヤ人国家」を出版した。ヨーロッパのユダヤ人問題解決の唯一の方法として、ユダヤ人国家の建設を提唱した。1897年に第1回シオニスト会議が開催され、1917年には、イギリスがバルフォア宣言でユダヤ人の国をパレスチナに作ることへの支持を表明した。ユダヤの国を作ろうという民族的政治運動はシオニズム(Zionism)と呼ばれる。語源はZion、Sion、Tzion、Tsionなどとアルファベット表記されるヘブライ語で、エルサレムの近くのシオン山を指すが、広義にエルサレムを指す。 ユダヤ人の政治的な解放とともに、同じ政治・文化圏に属するユダヤ人の間で、それに同化する程度や方法の違いが顕わになって来る。ボヘミア(プラハはその主要都市)のユダヤ人は一般的に同化したユダヤ人だった。カフカも同化ユダヤ人の一人と言えるだろう。これに対して、東ヨーロッパのユダヤ人の多くはその民族的・宗教的な特異性を棄てないユダヤ人だった。東ヨーロッパのユダヤ人の大部分はロシア(1897年、3.8百万人、ロシア帝国のアジア部分は除く)とポーランド(1897年、1.3百万人)に住んでいた。(数字はAmerican Jewish Yearbookに拠る) 1881年、ロシアで皇帝アレクサンドル二世が暗殺され、ユダヤ人の陰謀だとする風説が流れ、ユダヤ人に対する暴力行為がロシア中に広がった。迫害を逃れるため大量のユダヤ人がロシアを脱出した。1880年から1928年の間にロシアから2百万人以上のユダヤ人が国外に逃れた。その多くはアメリカ合衆国に向かったが(1.8百万人)、ヨーロッパ諸国にも24万人が避難してきた。(数字は英語版Wikipediaに拠る) 同化ユダヤ人、東欧からのユダヤ難民の流入、反ユダヤ的暴動の勃発、シオニズムの抬頭、これらの動きが不穏に絡まり合っていたのがカフカの生きた時代だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.01.17 12:26:09
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