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2018.12.25
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「近代の超克」と名付けられた会議が、戦前・戦中期にあったことは漠然と知っていた。その会議で何が語られどうしてこの会議のことが、あるいは「近代の超克」という概念が、そんなに否定的に言及されるのか、についてははっきり知らなかった。批判的な例を一つ上げよう。
当時「思想戦」を呼号していた一層粗暴な軍国主義者たち(文壇の中にも少なからずいた)の活動にたいして、「文学界」グループを中心としたこの論議は、ヨリ知的なスマートな外見をしていたが、本質的には同じコースを進んでいたものであり、それだけに手のこんだ影響を及ぼしていた。「文明開化」と官僚主義への批判という形で日本浪漫派が行ってきた資本主義文明批判はこの論議によってヨリ広い視野の中にひきだされ、さらに日本の近代社会とその生活・文明・芸術等においての近代的な側面のいびつな展開とそれの伴った弱点がさまざまな角度から論難攻撃され、その結果として軍国主義的な天皇制国家の擁護・理論づけないしそれの戦争体制の容認・服従ということが思想的カンパニアとして行われたのである。(小田切秀雄「『近代の超克』について」『文学』1958年、竹内好「近代の超克」から引用)
今回初めて「近代の超克」思想について調べてみて、わかったことが三つある。一つは、「近代の超克」的な概念を主題にした座談会は、少なくとも二つあったこと、二つ目は、その座談会のうち、「近代の超克」をタイトルに入れた座談会、こちらの方は13人もの大人数で行われた所為もあり、小田切の言うような戦争体制の容認・服従がまとまっった形で提示されているわけではない、比較的支離滅裂な内容だった、という点。そして三つ目、もう一つの座談会はいわゆる京都学派と呼ばれる、京都大学で西田幾多郎や田辺元に師事した哲学者たちの行ったもので、思想的にはこちらの方が戦争体制の容認・服従を匂わせるものだった。

戦前・戦中期に開かれた二つの「近代の超克」座談会のうち、時間的に先に行われたのは雑誌「中央公論」で開かれた京都学派の三回にわたる座談会(各回ごとに異なったタイトルが付けられていたが、後に単行本化された時は「世界史的立場と日本」と題された)で、こちらを「中央公論」座談会と呼ぼう。もう一つは雑誌「文学界」の「文化総合会議シンポジウム-近代の超克」と題された座談会、以下これを「文学界」座談会と呼ぶ。タイトルに「近代の超克」という言葉が入っている「文学界」座談会の方をまず振り返ってみる。

真珠湾攻撃から半年余り経っていた1942年(昭和17年)7月23日、24日に開かれ、文学界の同年9月号(論文が4つのみ)と10月号(座談会の記録と5つの論文)に掲載さた後、1943年に単行本として刊行されている。文学界に掲載された時には、タイトルが「知的協力会議 近代の超克」と変更されている。

参加者は全部で13人だった。色分けすると、文学界同人グループ、日本浪漫派的グループ、京都学派グループ、その他グループからなっていた。分野別では、芸評論家、詩人、音楽家、映画評論家、神学者、歴史学者、哲学者という多様な構成だ。二人のキーパースンが参加していない。文学界のメンバーで思想的には京都学派にも近い三木清(海外出張中)、もう一人は日本浪漫派の保田與重郎(欠席理由不明)だった。

司会を務めた河上徹太郎が座談会の冒頭で、なぜ「近代の超克」というフレーズをタイトルに使ったのかについて、次のように言っている。
実は「近代の超克」という言葉は一つの符牒みたいなもので、こういう言葉を一つ投げ出すならば、恐らく皆さんに共通する感じが、今はピンと来るものがあるだろう、さういふ所を狙って出してみたのです。・・・十二月八日(引用者注:真珠湾攻撃)以来、吾々の感情は茲でピタッと一つの型の決まりみたいなものを見せて居る。この型の決まり、これはどうにも言葉では言へない、つまりそれを僕は「近代の超克」といふのです・・・。(広松渉「<近代の超克>論」より引用)
「近代の超克」というキーワードを掲げたら、様々な専門分野の人たちが、ピタッと波長が合って話が弾むだろう、という非常に漠然とした思いでつけられたタイトルだということがわかる。真珠湾攻撃がその引き金になっていると河上は言うのだから、「近代の超克」というフレーズが対英米戦争と密接につながっていることは確かだ。明確に呈示されてはいないが、明治以来西欧文明に影響されてきた近代日本が、ついに対西欧の戦に立ち上がった、これは新しい時代の幕開けで、近代の超克である、とこんな感慨を河上が持っていたのだろう。この座談会よりおよそ半年前、「文学界」一月号の巻頭「光栄ある日」で河上が使っている言葉を見れば、彼の興奮状態がよくわかる。「ついに光栄ある時が来た」、「わが帝国の堂々たる態度」、「輝かしき戦果」、「今や一億国民の生れ更る日である」、「陛下の直ぐ御前にあって、しかも醜(しこ)の御楯となるべく召される」、「混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(竹内好「近代の超克」より)。そして、こういう感情は河上一人ではなく、当時の日本の多くの国民が持っていたものである。

河上の期待に反して、この大所帯の座談会は「ピタッと一つの型の決まり」を見せなかった。京都学派の人たちは、「近代の超克」というテーマに対して正面から答えようとした。例えば、鈴木成高は「政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克なのであり、思想においては自由主義の超克を意味する」というように。しかし他の参加者たちは、「第一日目の学者たちのスコラ的な議論の堂々めぐりにたまりかねて」二日目には感情的な言葉のやり取りになってしまった(竹内好)。結果、「文学界」座談会が、上に引用した小田切秀雄の言うような「軍国主義的な天皇制国家の擁護・理論づけないしそれの戦争体制の容認・服従」だったとは、とても思えない。ではなぜそういう「悪評」を付されてしまったのか?

想像するに、参加者のほぼ全員が対英米戦争には反対していなかった。むしろ誰もが感情的に歓迎していた、京都派学者たちの場合には理論的にも歓迎していた。この13人に限ったことではなく、1930年代に生きた日本人のほとんどが、この戦争によって日本が崖っぷちに追い込まれるとは想像していなかっただろう。そういう「空気」を吸っていた人たちには、皇国の為に一丸となって頑張ろう、という気持ちしか持てなかったのではないだろうか。「持てなかった」というのは強制されたからではなく、ある時代ある環境ある関係の中で生きる人間が成ってしまう存在の仕方だと言える。そういう時代に、13人の論客が「近代の超克」というタイトルでひらいた座談会は、たとえまとまりのない内容だったとしても、「近代の超克」的なものを表象していた。

この座談会がなぜ多くの知識青年を動かしたかという問いに、竹内好はこう答えている。(近代の超克という言葉の)「曖昧さの発揮する魔術的効力と『文学界』の伝統をもってしなければ結集できない『知的協力』の最後の光芒ともいうべき一閃のゆえではなかったろうか。」

参考
竹内好「近代の超克」(筑摩叢書、1983年、キンドル版、2002年)
広松渉の「<近代の超克>論」(講談社学術文庫、1989年)





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最終更新日  2018.12.25 14:11:59
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