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レヴィナス レヴィナスについて言い足りなかったことがあるので、「その2」ということで。 なお、前回にも今回にも「レヴィナスが言うには」と記事の中で出てくるが、正確には「レヴィナスについて語っている著者が言うには」ということであり、いちいちそんなことを書くのが面倒くさいので、「レヴィナスが言うには」と書いていることをご了承いただきたい。 ちゃんとレヴィナス本人の著作を読めば、同じようなことを言っているのかもしれないけど。 前回、レヴィナスについて否定的なことだけ書いたが、肯定できる部分もある。 倦怠・怠惰・疲労のくだりである。 日頃、倦怠感を感じている人は、何に疲れているのか? 学校生活に、職場に、家庭に、疲れている。 もっと言うと「人生に疲れている」。 そんな倦怠感、人生に対する疲労から、引きこもり等の行為に発展するわけだが、それらの元となった「人生の重荷」とは 「お前にはやりたいことも、やりがいのあることも、生きる意欲も、生きがいも、人生の意味も、人生の目的も与えられない。それでもお前は生きていかなくてはならない」 という私たちが知らずに結んだ何者かとの「契約」からやってきたものらしい。 これには納得できる。 「何者」って誰のこと?ってことや、「契約」って何?ってことはともかく、日常の理由無き倦怠感の原因を突き詰めていけば、そういうことだろう。 そもそも、人間1人ひとりに、上記の「やりたいこと」などは与えられるのだろうか? やりたいことがあっても、身体的・能力的・経済的・倫理的理由によって、手元から取り上げられてしまう場合が多い。 もっと具体的に言うなら、人間、第一希望の職業にみんなが就けるわけではない。 ほんの一握りの人間だけが「やりたい職業」に就けるのであって、第2、第3希望でもまだいい方、結局、それほどやりたいと思ってなかった職業で自分を騙し騙し生きている人の方が多いに決まっている。 さて、人生の根幹となる職業(生業と言ってもいい)で「やりたいこと」ができなかった人はどうするのか? 趣味に走るのか、子どもを産んでその教育に懸けるのか、それとも、その「やりたいこと」を探すことに一生を費やしてしまうのか? だんだん話が逸れてきている。 私が日々感じている倦怠感も、上記の「契約」に端を発しているのかもしれない。 でも、私にも「やりたいこと」かどうかはわからないが、人生の喜びを感じる瞬間はある。 誰よりも「良い芸」を観たときや、日頃「?」と思っていた芸人の「この人にはこういった面白さがあったのか」という魅力を発見したときなどなど。 それらが「生きがい」や「人生の目的」に転化すれば、日頃の倦怠感も晴れるのだろう。 レヴィナスについて、実はまだまだメモったことはあるのだが、これから小出しにしていく予定。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 12, 2006 01:07:01 AM
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