魏志倭人伝の解釈に一歩(新説)を記す
私にとって邪馬台国や卑弥呼は永遠のテーマです。自分が亡くなるまでに邪馬台国や卑弥呼の墓の所在地が確認されることを願ってやみません。下の画像はずいぶん前に行った吉野ケ里遺跡です。これまで2度行っています。さて、今回はこれまでずっと議論されてきた邪馬台国の所在地に関して九州説や近畿説、出雲説、北陸説などに一石を投じたいと思い記録としてブログに残すことにしました。邪馬台国の所在地がはっきりしない最大の理由は魏志倭人伝のある一説にあります。「南至邪馬臺国 女王之所都 水行十日陸行一月」この前段に帯方郡から不弥国までの方角と里程が書かれ、さらにそのあと「南至投馬国水行二十日」とあります。これまでの一般的な解釈は南の投馬国へは不弥国あるいは伊都国から水行20日、さらに南の邪馬台国へは水行10日、陸行一カ月のところにあると読み解いています。すると邪馬台国は九州から出てしまい、フィリピン辺りまで行ってしまうことになるとか。そこで、近畿説などでは「南」は魏志倭人伝の誤りで正しくは「東」だったとの勝手な解釈に読み替えて、近畿説とする説が有数の学者によって横行しているのが現状なのです。そもそも魏志倭人伝には帯方郡より12,000余里のところに女王国ありと記しています。そして、帯方郡より末盧国までは10,000里、伊都国までは10,500里となり、残すところ伊都国から女王国である邪馬台国まで1,500里(およそ135KM)とすれば、邪馬台国は北部九州にあったとみるのが相当です。ここまでは九州説の誰もが言っているところです。しかし、わからないのは伊都国あるいは不弥国から南の投馬国へは船で20日、さらに南の邪馬台国へは船で10日、陸を行くこと1カ月と読むから、わけが分からなくなるのです。女王のいる邪馬台国は30余の小国を統属し、南にあり、その以北に21の小国があること、そしてその最後に奴国のあることを挙げています。そうです。奴国は伊都国の東南100里にあると書かれている国に戻ってくるのです。しかし、投馬国は以北の小国の中に含まれていません。つまり投馬国も邪馬台国と同じように南にあるとするのが私の解釈です。事実、南至投馬国と言っているのですから。実際、諸説の中には投馬国は有明海沿岸とする説もありますし、私もそう思っています。つまり、不弥国までは方角と里程だったのが、投馬国から方角と旅程に変わっていることに目を向けなければなりません。ここで変わったのが何なのか?ということです。さらに帯方郡から邪馬台国までは12,000余里と決まっているのですから。では、私の結論(新説)です。南にある投馬国(有明海沿岸)まで帯方郡から船で20日かかる。南にある邪馬台国まで帯方郡から船で10日、陸を行くこと1か月かかる。つまり、出発点の帯方郡からの旅程なのです。これが正解です。こう読めば、南→東に変えることもなければ、魏志倭人伝の記載に誤りはありません。魏志倭人伝は事実を書いた信用に足る歴史書であることが裏付けられるわけです。投馬国へはどのような行程を辿ったかはわかりません。一大国(壹岐郡)から一旦は末盧国そして伊都国の港で一大率による検査を受け、場合によってはそこに留まり、そのあと長崎を回り、島原湾から有明海に入り投馬国に着いたと考えます。それでも陸行すれば、邪馬台国以上に時間がかかります。邪馬台国へは帯方郡を出て船で10日かかり末盧国に着きます。そして末盧国の説明の中に「草木茂盛、行不見前人」つまり 、先に行く人が見えないほどに生い茂った葦原を掻き分けて進んだとあるように、歩くのも大変であったことが書かれています。茂在寅男教授(東海大学)はかつて実地踏査により「道なき道を歩むのは想像以上に大変で、リアス式海岸伝いはいたるところが難所で、1日7キロがやっと、そのペースで2日歩いて到達した所は直線距離でわずかに5キロしかない地点に到達するのがやっとであった」と言っています。末盧国から伊都国を経由し南の邪馬台国へは当時は歩いて1か月を要したということなのです。そして、私の思う邪馬台国の所在地は安本美典さんの説明する「甘木・朝倉」ではないかと考えています。にほんブログ村にほんブログ