矢取地蔵尊・西寺跡・鎌達稲荷神社(京都・南区)
本日の「京都」駅・駅西エリアの散策も、いよいよ終盤です。「六孫王神社(Rokusonno-jinjya)」から壬生通りを南下。九条通りに出ると、次は西に。目指すは、「東寺(To-ji)」(世界遺産)と同じ時期に建立された寺院「西寺」の痕跡。と、その前に九条通りにある御堂に寄る。「矢取地蔵尊(Yatori-jizoson)」と言いまして、バス停「羅城門」の真ん前にあります。「羅城門」とは、かつて「平安京(Heian-kyo)」の都があった時の正面玄関。この門を挟んで東西に、それぞれ約200mの間隔で「東寺」と「西寺」が建っていた。え?「西寺」?あったっけ?それもそのはず。990年、塔を残して焼失してしまい、そのまま再建されなかった幻の寺院なんです。今では塔もありません。2つの寺院は、位置的には左右対称でありながら、全く違う運命を辿った。元々この2つの寺院は、王城守護・国家鎮護を担うよう祈りを込めた建てられた官寺だった。823年、第52代・嵯峨(Saga)天皇の勅命で、「東寺」を空海(Kukai)に、「西寺」を守敏(Syubin)に与えた事により、「東寺」は空海によって真言密教の寺院へと変わっていったのに対して、「西寺」は全国の寺院や僧尼を統括する官寺のままだった事が衰退の最大の原因となった。国家の財政が破綻すると、当然「西寺」も財政難に陥る。官寺のままでいた事で、歴史から消えていったのだ。当時、嵯峨天皇の寵愛を受けていた空海と守敏は、事あるごとに対立していたようだ。ある逸話が残っている。「降雨祈願の法力争い」がそれだ。 天長元年、一滴の雨も降らないので、第53代・淳和(Jyunna)天皇は「神泉苑」で降雨祈願を空海に命じた。これを守敏が、自分が先に祈願したいと申し出る。しかし、7日間でわずかな雨しか降らすことができなかった。次に空海が祈願するも、効果が表れない。実は、守敏が雨の神である竜神を封じ込めていたのだ。しかし、善女竜王だけ封じ込められず天竺にいることが分かった空海は、その竜神を呼び寄せ、ようやく雨を降らすことに成功した。その事で守敏は怒り、法力で空海を調伏しようとしたが勝負がつかない。空海は死んだと偽った噂を流したため、守敏が油断した隙に、空海の法力により死亡してしまったという。さて、この「矢取地蔵尊」ですが。この逸話の法力争いで、守敏が空海を狙って打った矢を、1人の僧が身代わりに受けた。何と、その僧は地蔵様の化身であり、その時受けた矢傷が今でも右肩に残っているという。覗くと傷は分かりませんが、お地蔵様が矢を持っているのは見えました。 こんな小さなお堂にも、深~い歴史があるんですね。というか、雨は降らせる事ができなかったわりに、竜神を封じ込めた守敏って…凄いのかそうでないのか?その北側に「唐橋羅城門公園」という小さな公園があります。申し訳程度に、遊具が置かれていますが、その公園の非常に邪魔な場所に石標「羅城門遺址」が建っています。ここに「平安京」の正面玄関・羅城門が聳えていたんだ。北の朱雀門に対応して、正面33m・奥行き8mの、巨大な門。980年、暴風雨で損壊。楼上にあった「兜跋毘沙門天立像」(重要文化財)は、この時「東寺」に移されたという。「羅城門」といえば、高校の教科書に載っていた芥川龍之介(Akutagawa Ryunosuke)の『羅生門』ですよね。 『羅生門』 芥川龍之介 或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。 廣い門の下には、この男の外に誰もいない。唯、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男の外にも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありさうなものである。それが、この男の外には誰もいない。 芥川は、「生」を使っています。建設当時は、「羅城門」は「Rajyo-mon」あるいは「Rasei-mon」と呼び、都を取り囲む城壁の事をいうため「城」の字であった。中世頃から「Rasyo-mon」の読みが一般化した。当て字として「羅生門」となったのだとか。寂れた「羅生門」の楼上に、死体が打ち捨てられていたという話であるが、きっとその頃には、兜跋毘沙門天立像は、もうそこには無かったのだろうね。という事で、最終目的地の「西寺跡(Sai-ji-ato)」(国史跡)にやって来ました。唐橋小学校の北側、「唐橋西寺公園」の中にあります。公園中央の壇は講堂の跡地だった所で、土を盛っているのだそうだ。後向いちゃってますが、石標には「史蹟西寺址」と書かれています。後ろの小学校も「西寺」の境内だったから、グランドからはその頃の物が、色々出土しているようですよ。掘ったら(かなり深く)、平安時代の物が出てくるグランドって、すごい!ホントのタイムカプセルだ!この「西寺」にも「東寺」と同じく、五重塔が聳えていた。今では、数個の礎石が草に埋もれてしまっているだけである。でも多分、寂しくない。公園内で遊ぶ子供たちの声に囲まれているのだから。唯一、「西寺」の物として後世に残っているものがある。梵鐘である。伝承によると、京都にある「東福寺(Tohuku-ji)」へ移設されたのだそうだ。その公園の一角に、変わった名前の神社があった。「鎌達稲荷神社(Kentatu-inari-jinjya)」だ。……ん~~?どうしても気になる。石標の「達」の字、一本、横線が足りないのは何でだろう。何気なく横の看板を見ると、「元、陰陽師 阿部晴明が子孫 阿部・土御門家の鎮守社」とある。ん~~?またもや字が気になる。「安倍晴明(Abe-no-Seimei)」ではないのか?土御門家といえば、天文・歴道・陰陽道で朝廷に仕えていた公家。ま、陰陽師と書いてあるし、覗いてみましょうか。本殿。ご祭神:倉稲魂命(Uka-no-mitama-no-mikoto)・猿田彦命(Sarutahiko-no-mikoto)。771年に鎮座。一説によると、538年で「伏見稲荷大社(Husimi-inari-taisya)」よりも古く、それ故「元稲荷」と伝えられているのだとか。狛犬さん。狐ではないのか。 あ、でも、絵馬は狐。社務所にこんな写真が飾ってあった。私はお相撲の事は良く知らないのだが、「高安関」を検索してみると。2018年11月の千秋楽で、最後まで「貴景勝関」と優勝を争っていたのだとか。今回、横綱不在で誰が勝っても初優勝という中で、接戦していだんだね。(2018年11月末にこのブログを書いてます。)ん?なんか、金色のお守りが一緒に写ってる。お守りに書かれてある漢字。難しいので、変換できません。何て書いてあるんだろう。調べてみると、「samuhara」と読むのだそうです。これは「漢字」ではなく、「神字」。呪い(まじない)のお守りで、災難除け・奇跡を生むんだとか。日清戦争や日露戦争の際、弾除けのご利益があるとして、兵士の着る服に千人針で、あるいは日の丸の寄せ書きなどに、かなりの頻度で出てきたという不思議な言葉。戦国時代に生きた加藤清正が朝鮮出兵の折、刀に刻んだとも言われている。転じて、無病無傷の護符として有名なんだそうだ。そうすると、高安関ってば、ホントにご利益あったんじゃないの?隣に「白菊稲荷神社」があった。ダブル稲荷だ。「伏見稲荷大社」の下之社に見られるお稲荷さん。 というわけで、そろそろ帰る時間になりました。そうそう、「京都」駅に「羅城門」の模型が展示してあったんだった。誰も注目する人がいない、ひっそりとした場所に設置してある。現在の京都は、平安京の面影を探すのは難しいです。「羅城門」も再建する場所もありません。ここは模型でイメージを膨らませるしかないですね。 (2017年7月中旬現在)