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なぜなら、信長は自分自身が平清盛に習って太政大臣になろうとしていて、 正親町天皇の皇太子・誠仁親王に自分の京都の邸宅だった二条第を譲っていた。 だから本能寺を宿舎としたわけだ。 光秀の心情はともかく、信長が本能寺事件の直前にやろうとしていたことはほぼ状況が解明されている。 信長は、天正9年(本能寺事件の前年)初めに安土で爆竹祭りである「左義長」を挙行した。 特筆すべきは、この祭りに信長はすでに太政大臣に内定していた近衛前久を招待したことである。 この盛大な祭りを聞いた朝廷側が、ぜひ京都御所の近くで再現してほしいと求めた。 すると信長は応諾しつつ、さっそく直轄軍団とともに上京。 2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行った(第一次京都御馬揃え)。 このとき、信長は細川藤孝から献上させた聖徳太子ゆかりの蜀江錦を陣羽織に仕立て着用していた。 朝廷側の驚愕と動揺を確認した信長は、3月5日に名馬500余騎馬をもって再び馬揃えを挙行した。 洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になった。 3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。 3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。 3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。 だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。 朝廷は困惑した。 もともと信長が平氏を自称していたが、馬揃えのとき織田軍は平清盛と同じ旗印を用いていた。 朝廷側はこれを「左大臣ではなく、信長は太政大臣の地位を要求している」と解釈して、信長の意思を確認した。 その反応は秘密にされていたので記録はないが、 2月に太政大臣に就任したばかりである近衛前久が5月に辞任してから、空席となっている。 本能寺の変後の翌年7月17日に羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙において、秀吉が信長のことを「大相国」と呼んでいる。 信長は死後、太政大臣贈官が10月に提起され、その宣命には「重而太政大臣」の語句があるので、信長は本能寺事件の時点で太政大臣の就任について、誠仁親王への譲位と同時に応諾すると返答したことが推論されるのである。 さて光秀はこの馬揃えの主宰として参加したが、実は細川藤孝は参列も許されず、丹後の宮津城にいた。 しかも馬揃えの後、『信長公記』によると、信長は「細川には丹後の半国を与えたから」として、細川家の旧領だった勝龍寺城(長岡京市)をかなり強制的に接収した。 このとき、丹後は北半分に旧領主で信長に降伏した一色氏が許されて残存していた。 藤孝は織田政権のもっとも辺境に追いやられ、本拠地だった城(息子の細川忠興とガラシャの幸せな新婚生活の地でもある)を奪われた。 明らかにこの措置は、正親町天皇にもっとも親しく、その譲位強請に異議をもっていた藤孝に対する冷遇と考えられるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 13, 2015 10:39:56 AM
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