脳死は人の死か
臓器移植に関する法律の見直しが話題になっています。現状の法律では、15歳未満の子どもからの臓器移植はできません。そのおもな理由は、・臓器移植にはドナー本人の意思による承諾が必要で、 子どもに事態に対する理解の上での決断は無理・小児の場合、 脳死状態になってから心停止まで30日以上になることもあり(大人は約4日)、 またその間に成長ホルモンが分泌するなど 脳のはたらきが生じる場合も見られるため(これを脳の可塑性という)、 大人と同じ脳死判定の基準をそのままあてはめるのは危険の二つです。法律で禁じられているわけですから、、日本人の子どもで臓器移植を希望する場合、海外で手術を受けるしかありませんでした。しかし近年、世界的な臓器移植を希望する人の増加と、それに応えるだけの臓器提供者数がどの国でも足りないことから(「臓器不足」という言葉は使いたくありません)高度な医療技術を有する日本は、自国での臓器移植をするよう各国から圧力がかかり始めました。そうした経緯が背中を押す形で法律が成立して本来は5年以内に見直しをするはずのものを12年も放置していたこの法律にようやく本格議論のきざしが見え始めました。(2005年に修正案が提出されているが、郵政民営化をめぐる小泉解散で審議されずに廃案)今回は与野党から・子どもも含め、一律「脳死=人の死」と考えるもの、・現行の「15歳以上」を「12歳以上」に引き下げるもの、・今よりさらにハードルを高くし、判定基準を厳しくするもの、などの修正案について、国会での審議が予定されています。家族の同意のあり方や、虐待があった場合についてなど、論点はいろいろあります。ここで注目すべきは、現在の法律では15歳以上であっても「脳死=人の死」ではなく、「臓器移植をする場合に限って脳死=人の死とする」となっていることです。人の死の線引きが、置かれている立場によって変わるのです。脳死状態になった人が生前臓器移植のドナーになることを望んでいる場合に限り、その人の死は、他の人の死より前倒ししてやってくる。だからこそ、「その人が本当に望んだことか」が重要になってきます。特に、その人を今の今まで生かそうと努力してきた医師と少しでも長く生きていてほしい、願わくは、目を開けてほしいと願う家族にとっては。また、確実に脳死状態かを見極めることも大切です。ですから厳密な脳死判定の手順が決められています。その一つに、自発呼吸がないことを確認するという項目があります。判定のため、人工呼吸器を一定時間はずすことになります。ここで問題になるのが、「もし脳死じゃなかったらどうなるのか?」ということです。一定時間人工呼吸をはずすことで、その患者の回復の可能性を狭めることにならないか?特に小児の場合、上にいうような「脳の可塑性」が見られ、痛みを感じることもあるというので、この脳死判定を行うのに抵抗を感じ、小児の脳死判定を安易にするべきでないと考える小児科の医師も多いと聞きます。私は脳死が疑われる状態の父親を見、その父が生前、無用の延命措置を書面で断っていたので脳死判定をし、人工呼吸器をはずしたら自発呼吸が戻ってきて、そのまま数日後心停止して亡くなったのを見ています。人工呼吸器や管につながれ、動いているというよりけいれんしているとしか思えず、「ああ、これはもう父ではない。父は死んだ、これが脳死というものなんだ」と娘の私が観念したそばで、「あたたかいわ、まだあたたかいわ……」と足をさする母の姿は父が亡くなってすでに15年以上が経とうとする今でも忘れることができません。64歳の父が、書面で延命措置を拒否し、そのことを家族がずっと前から知っていたからこそ延命措置を拒否できました。当時の医師にしても、「管をはずす」というのは大変重い決断で、非常に慎重にさまざまなテストをし、脳死判定の一つひとつを確実にやり遂げて後のことでした。もし、自発呼吸が戻らなければ、再び人工呼吸器をつけていただろう、とも聞きました。私は必ずしも脳死からの臓器移植に反対する立場ではありません。でももし、まだ2歳かそこらのわが子が交通事故に遭ってさっきまで笑っていたのに今「脳死かも」といわれて、「あなたが決断すれば、ほかの子どもが助かるかもしれないから」といわれて、まだあたたかいわが子を感じながら、臓器摘出の決断を迫られるとしたら……。考えただけでも胸がつまります。脳死というものを身近で経験し、脳死ということを、ある程度学んだ私でさえ、迷います。多くの人は、生死の境をさまよったり、長いこと病苦に悩まされたり、身近な人が亡くなったりするのをそれほど経験していません。ある日突然、「死」は飛び込んできます。誰だって動揺します。そして、「死なないで」と思います。もう死んでしまったと誰もがわかっている遺体に何度も何度も語りかけながら、自分の中の気持ちを整理する人もいます。死んだ人の問題ではなく、生きている人の問題があるのです。「人の死」を受け入れるには、時間が必要です。でも「脳死=人の死」となれば、私たちは、旅立とうとする家族が心停止するまで待つ権利も脅かされます。死体には治療はほどこせないし、死体なら健康保険も効きません。脳死体からの臓器移植は拒否することはできても、「まだ生きている」とはいえなくなる。まだ、あたたかいのに。もう少し、こうしていたいのに。だからこそ、「臓器移植」の問題解決のために、拙速に法律で一律「脳死=人の死」とされることには、非常な戸惑いを感じます。私は、臓器移植がなかなか普及しない原因は、「脳死=人の死」かどうかではなく、「愛する人が死んだ瞬間から数十分のうちに、 そこから臓器を取り出す決断を遺族ができるのか」にあると思っています。長いこと病気であったり、十分生きたという満足感があったり、死生観についての話し合いが本人と家族の間で共有されていれば決断できるでしょうが、その死そのものが突然だった場合、まず、「死んだ」ということを受け入れるのに、時間がかかります。事実、今の日本では脳死体でなく心臓死からの臓器移植さえものすごく件数が少ないということです。心臓死の遺体からの臓器移植は、遺族の承諾のみでもできるのにも拘らず、です。この現実について、もっとしっかり分析するべきではないでしょうか。今でこそ「解剖」や「献体」という言葉がかなり一般的に話されるようになりましたが、ひと昔前は、「死んでまで体を切り刻まれるのはかわいそう」と遺族はできるだけ「きれいな」体のまま葬儀を行ないたいと要望することが多かった。少しずつ変わってきたとはいえ、必要に迫られての解剖や、本人が希望した解剖ですら遺族の感情が許さないという土壌には、とてもデリケートな死生観が横たわっていると感じます。参考に「子どもの脳死と臓器移植」という報告書をリンクさせておきます。ドナーとレシピエント、両方の立場から子どもをめぐる問題を論じています(上で述べた廃案になった2005年の審議に先立っての報告書です)。