久々に観た「マトリックス」
新年最初の映画はテレビ視聴で「ショーシャンクの空に」でした。名作です。何度観ても引きこまれる。そして2作目もやはりテレビ視聴で「マトリックス」。こちらも大好きな映画。前に書いたレビューはこちら。以下、ネタバレがあるので、観たことのない方はご覧になってから読んでください。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私はこの映画シリーズの哲学的なところと、ハイテクの理論の明快なビジュアル化にしびれていたんですが、今日観て初めて気づいたことがある。ネオは一度死んで、復活して、そして「救世主」になったんだね。預言者もいるし、宗教的な文法を踏んでいるんですね。(今頃それかい! 気づけよ!)…と突っ込まれそう!そのほかに、「人間は、やれると思えばできる」という能動性を示していることにも始めて気がつきました。「自分で限界を置かない」「恐怖という概念を捨てる」バーチャルな世界だからこそ、普通なら絶対届くはずがない向かいのビルにジャンプできる。実際、高所恐怖症を治すソフトがあるんですよ。部屋の床に吊り橋の映像を映して、その上を歩くという・・・。実際は部屋の中だとわかっていても、怖くて足がすくむ。バーチャルでできるようになると、実際の吊り橋も渡れるようになるという、訓練。自分が「やれる」と思えることがどれだけの力をもたらすものなのか。テニスの錦織選手がマイケル・チャンコーチに教わったのはこのことですね。「今、自分が勝てない選手はいない」と思えなければ、世界チャンピオンにはなれないのです。このことが前出の「宗教的な部分」を凌駕する場面があります。預言者を置きながら、その預言者に「運命を信じるな」と言わせる。答えは自分が持っていることに気づかせます。ネオは最初、他人から「お前は救世主だ」と言われれば自分は救世主なのかと考えていたけれど、預言者からは明確に否定される。でも自分からそうだと確信したそのときから、彼は救世主への一歩を踏み出す。ここは、視聴者が自分の人生への指針にできる部分としてよくできています。けれど、ネオは自分を信じて救世主になれたかといえば、失敗した。さっきとは逆で、「いくら信じても、不可能なことはある」ことを示しています。ところが!死んだはずのネオが息を吹き返す。ここが、ネオを「英雄」ではなく「救世主」と名付けた由縁だろうと思う。「一度死んで、復活する」という儀式を経なければ本当の「救世主」にはなれない。観る側にある「キリスト教的」思考回路に、見事に訴えかけているのです。ネオが超人的な力を持つためには、人間ではいけないのです。ネオが「スーパーマン」のように全速で空を飛び回るのは、もはやネオが人間でないことを示しています。見出され、巻き込まれ、何もわからぬまま仲間の力を信じ、やがては自分の力を信じて戦ったネオですが、「復活」の後、ネオの瞳や表情からはそうした人間的な「不安」や「熱」あるいは「喜び」が感じられません。彼は、すべてを「見切った」から。キアヌ・リーブスのそうした演じ分けもまた、見事だと思いました。