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ガムザッティの感動おすそわけブログ

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gamzatti

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くらべて観る、くらべて読む

2015.02.20
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昨日、歌舞伎座で「陣門・組討」幕見してきました。
もーーーーー、すごい、すごすぎる!
ぜひぜひおでかけください。

私ももう一度行けたらと思います。

http://kabukilecture.blog.jp/archives/2015-02-20.html


この作品は、昨年国立劇場で、高麗屋が上演していて、
松本幸四郎と市川染五郎が演じていました。
染ちゃんの若武者姿も美しかった。
途中、幸四郎さんが花道で乗っていた馬がバランスを崩し、
馬上から花道横の客席まで転落してしまって、ひやっとした興行でもありたね。
その後大事に至らず、本当によかったです。

夜の部では、幸四郎さんが主演の「筆屋幸兵衛」も心に残る作品です。






Last updated  2015.02.20 19:25:40
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2015.02.11
1月、大阪松竹座で上演した「河内山」について、
「ルパン三世」の名作「カリオストロの城」と比べて書きました。



こちらからどうぞ!






Last updated  2015.02.11 12:58:53
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2015.01.26
月9、久々のスマッシュヒット「デート〜恋とはどんなものかしら〜」。
何年ぶりだろう、この来週の待ち遠しさ感。
そして、ハタと気づいた。これって「封印切」じゃん!

そんな、歌舞伎と月9の深い関係について書きました!
http://kabukilecture.blog.jp/archives/2015-01-26.html






Last updated  2015.01.27 11:23:26
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2014.12.04
書かねばならぬことがたくさんありますが、
いろいろありまして滞っております。

来週からがんばって遡って書く予定ですので
どうぞご容赦を!

取り急ぎ、本日1つ先に、短感のみ。

ザハロワのニキヤは素晴らしかったです。
文句なし。
ラントラートフのソロルも、高速回転と浮遊感のあるジャンプで魅せました。
二人とも、音楽を身体で感じて波と一体化していた。

大好きなマリーヤ・アレクサンドロワがガムザッティをやるというのが
私の眼目の一つだったのですが、
姐さん、ちょっと体型が…。
もともと大柄だし、そこが魅力ではありますが、
それにしても…というレベルで、
生お腹丸出しの衣裳がちょっとイタい感じでした。
踊りのほうも、決して悪くはないけれど、
ザハロワとラントラートフが音楽とぴったり合っていたのに比べて、
「踊りますわよ~!」が全開すぎ、
音との協調性が今ひとつ。私は乗りきれなかった。
去年の怪我の影響もあるのかな。
キトリはきっとよかったのだろう、と脳内で想像。

ザハロワのニキヤ、ロヂキンの奴隷は別格だったけど、
数年前に見たマリインスキーの「ラ・バヤデール」すべてに完璧な舞台からすると、
今回のボリショイに、ずば抜けた感激はなかった。
逆にこの前のKバレエの「ラ・バヤデール」が、かなりのレベルだったことを再認識。
三幕の冒頭の素晴らしさはかなうべくもありませんでしたが、
他はいい線いっていたと思います。
KのDVDが出たら、買ってもう一度よく見ようっと。

音のよい文化会館でしたが、オーケストラの演奏も管楽器の音が割れ気味で乱調。
ただ、三幕のグラン・パ・ド・ドゥでアダージオのヴァイオリンソロは
妙なる調べでうっとりしました。

幕間に、フィーリン芸術監督を発見。
サングラスですが、お元気な様子でほっとしました。






Last updated  2014.12.04 17:24:42
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2014.12.03
Once

この舞台の元となった映画「Once~ダブリンの街角で」は、公開当時見ている。
最初に舞台化の話題に触れたとき、私は懐疑的だった。
「あんなに地味な作品をどうやって舞台にするのか?」と。
だから、
トニー賞各賞を総なめにするほどの人気だと聞いたときは、非常にびっくりいたものである。

今回、初来日の舞台を観て、
「これは映画を越えたな」というのが正直な感想だ。
楽曲のよさがこれほど心にしみわたるのは、生演奏ならではだし、
それを支えるキャストのクォリティが非常に高く、実に素晴らしい。

ただ「映画を越えた」とはいえ、
原曲あっての舞台化、ミュージカル化なわけで。
生歌、生演奏の迫力と美しいハーモニーには、本当に心洗われる。
せつないけど、そこを悲劇ではなくとらえるラストがいい。
ここの説得力が、映画より断然舞台なんだな。

まずアイリッシュパブを基調とした舞台装置が見事で、
EXシアターという、どちらかといえば無機質な劇場が
本当にアットホームな空間に生まれ変わるのだ。
そのセットに開演前や休憩中に上がれるのも素敵!
公演前や休憩時間に、そのカウンターで飲み物を買えるという趣向もGood。
舞台に上がってみると、思いのほか小さい舞台に、驚くかもしれない。

ひとつひとつの歌が伝える感情を大切にして、
点と点を結びつけるようにした構成がまた見事で、
特に「Gold」という楽曲では歌詞の深さ、美しさ酔いしれた。
二度目にアカペラで歌われるところではもう体に電気が走るくらいしびれました!
音楽と、詩と。
芸術が、人生を語る小舟に揺蕩う瞬間に遭遇。

映画のレビューはこちらだが、
映画はどちらかというと、ダブリンの街を俯瞰から見ていたと思う。
その分、男と女の関係よりもダブリンとかチェコ移民とか、そういうものが強烈だった。

「終わりよければすべてよし」型ハリウッド映画にはない、胸がチリチリするせつなさや
もどかしいほどの男女の「一歩」が出ない空気感は
映画よりずっと共感しやすかったと思う。
舞台は映画より、男と女の「魂の距離」がずっと近く、ウェットだった。
ダブリンとかチェコとかNYとか、土地柄が持つ意味や社会問題は
日本人の多くにはわからないものが多いけれど、
シングルマザーで母親の面倒まで見ている女が男に放つ
「(NYに)お母さんまで連れて行ける?」の一言の重みは、
きっと誰にも突き刺さることでしょう。

また、
映画を見たときには「やっぱり結局元カノなわけ?」という憤慨(笑)が残ったのだが、
舞台では、どんな人生にも一歩踏み出ために何かをあきらめるときがあり、
それは自分が決めるものであって強制されるものではない、ということをしみじみと感じた。

そしてこの舞台はまるで、小津安二郎の映画みたいだな、とも思った。
「女」には原節子が重なり、
「男」のお父さんが最後に「行け」というところは、笠智衆みたいで。

六本木のEXシアターで12/14まで。
こちらから、動画も見られます。(複数あります)


トニー賞、グラミー賞、当然だと思うと同時に、
これがアメリカでも多くの人に受けるという現象に、
時代を感じさせられます。






Last updated  2014.12.05 08:28:49
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2014.06.23
2012年に初演され、好評を博した蜷川幸雄演出の「海辺のカフカ」。
村上春樹の小説をほとんど読んでいなかった私は当時、
「村上春樹の原作だから」という理由でスルーした。
でも、
自他ともに認めるハルキストの友人2人が
2人とも絶賛していたのを聞いて、
これが村上春樹を理解するいいチャンスだったのかも、と
ちょっと後悔していました。

だから今回再演が決まったときは、
「やった!」と思った。
ただし、俳優は半分変わった。
初演も観た人によると、内容も少し変化したみたいです。

舞台は3時間以上という長丁場ながら、
飽きるということのない展開と緊張感。
特によかったと感じたのは以下の点。

とにもかくにも、ナカタさん役の木場勝己の存在感が素晴らしかったということ。

前半終了間際、
ジョニーウォーカーが猫を…というところがあまりにリアルでおぞましかったこと。
舞台では初見の藤木直人の声が、
ソフトながらよく通って予想以上に舞台向きだと感じたこと。
ネコの着ぐるみの動きがリアルで違和感がなかったこと。

佐伯さん役の宮沢りえがきれいすぎて、少女時代の佐伯さんと見分けがつかなかったことは、
良かったともいえるし、悪かったともいえます。


物語は、こうだ。


(これから観る人は、ここから先はネタバレになるので、
 舞台を観終わってから読んでね。
 舞台は観ていないが、原作を読んだという人は
 このまま読み進めても大丈夫)











・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

父親を嫌って自分らしく生きようとした田村少年は、
「カラスと呼ばれる少年」に励まされ、家出をし、四国に行く。
行きの高速バスの中で、少年はさくらという少女に出会う。
さくらは姉のように少年を包む。
家出してから、少年は自分のことを「田村カフカ」と名乗る。
ある夜自分が血まみれになっているのに驚く。
東京では田村少年の父親が殺されている。

一方、幼いときの事故をきっかけで記憶を亡くし文字が読めない中高年男性ナカタさんは、
猫さがし名人として重宝がられており、一匹の迷子猫を探していた。
彼は猫と話ができた。
ナカタさんはジョニーウォーカーという猫さらいと遭遇、
彼に「自分を殺してくれ」と頼まれる。

ナカタさんは最初断るが、
自分の探している迷い猫や、探す過程で友だちになった猫を殺されそうになり、
思わずジョニーウォーカーを刺してしまう。
ナカタさんはすぐに自首するが、警官は本気にしない。

家に帰れと言われたナカタさんは、ある「使命」を感じて西へ西へと移動する。
字の読めないナカタさんは、移動にヒッチハイクを使い、
そこで出会ったトラック運転手ホシノさんとの珍道中が始まる。

田村少年は四国で佐伯さんに出会う。
佐伯さんは元恋人で幼馴染の男性の遺産である図書館を管理していた。
その男性は20歳のころ、別人と間違えられ東京で殺されていた。
図書館で働く大島さんには、
佐伯さんは恋人の死後、ずっと自分が死ぬのを待っているように見える。

田村少年は佐伯さんに自分を捨てて出て行った母親を重ね、
もしかしたら本当に佐伯さんは母親ではないかと考える。
佐伯さんは田村少年に自分の元恋人を重ね、
ある夜2人は1つになる。

四国についたナカタさんは「入口の石」をさがそうとする。
「入口の石」はホシノさんがみつけてきたが、
この石の入り口を開け、そして閉めるのがナカタさんの使命だという。
ナカタさんは佐伯さんに会い、自分の使命を打ち明ける。
佐伯さんは「そのときが来た」と感じる。
ナカタさんは、ホシノさんと同宿している旅館の一室で息をひきとる。

田村少年は佐伯さんを求め、「入口」を入っていくが、
そこで出会った佐伯さんは田村少年に「ここ」を出て生きるように願う。
二人は堅く抱擁して別れる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

観終わった後、私には消化不良な感じが残った。
「これは一体何をいいたい舞台なのか」その落としどころが見えなかったから。

当初、この「消化不良」は、
今回オーディションに受かって初舞台の古畑新之の技術不足に起因すると考えた。
彼の科白術では、主人公たる田村カフカの心情が迫ってくる場面が少なく、
単なる「弱い」「頼りない」「非力な」少年像を結ぶのみに役立っていると感じた。

母と息子の近親相かんをアイコン的にクライマックスにもってくるのは蜷川演劇ではよくあるところで、
そこに既視感は否めない。
古畑と同様、オーディションで蜷川に見いだされた藤原竜也もまた、
「身毒丸」で母親役の白石加代子に抱きついてクライマックスを迎える。

今回の作品では、
父を殺し、母を犯し、のオイディプス的世界があるのは一目瞭然だが、
息子の代わりに父を殺したナカタさんは、少年にとってどういう関係があるのかがまず不明。

ナカタさんに記憶障害を負わせた「事件」がどのくらい物語の全容に重大な関係があるのかも不明。

少年の分身とおぼしき「カラスと呼ばれる少年」が、
最終的に少年と一体化するのか
しないのか、なんだったのか、不明。

田村少年はなぜ父親を敵視し、嫌悪するのかが不明。だって、自分のもとを去ったのは母親。

ジョニー・ウォーカーさんはナカタさんが観た幻影であって、田村少年の父親が猫をナニしていたというのが事実という落としどころはない。劇では田村少年の本当の父親については、
気難しい彫刻家であったこと以外一切出てこない。


(ほかにもなぜカーネル・サンダースさんがホシノさんに「石」のありかをおしえるのかとか、
 なぜイワシが空から降ってきて、それをナカタさんが予言するのかとか、
 ナゾはいろいろあるが、それらは演劇スタイルとしてスルーすべきレベルのものと思った。)


こんなに疑問が噴出しているのに、
その原因が「新人俳優の力不足」だけのはずがない。
そう思って、私は人生2作品目となる村上春樹小説読破に挑んだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

結論。

この舞台は、小説「海辺のカフカ」の外観を完結に、わかりやすくまとめた。
各キャラクターの特徴や、場面の雰囲気を的確にとらえ、
「難解」と言われる原作小説を目の前に具体的なイメージとして結んでいる。
原作に書いてある台詞をそのまま使用している点でも「原作通り」の感が強い。
だから
「原作を読んでみよう」と思わせる端緒として大変有効で、
事実、読み進めるうちナカタさんとして木場勝己が、ジョニーゥオーカーとして新川将人が、
ホシノさんとして高橋努が、カーネル・サンダースとして鳥山正克が、
いきいきと物語を語ってくれる。
ある意味、
村上春樹の世界に誘う「入口」として、
これほど素晴らしい「石」はない、と思う。

だが一方で、
この舞台は「わかりやすさ」をすべてに優先するあまり、
原作の核心となるべき思索のすべてを意識的に捨て去ってしまった。

ナカタさんはなぜ、ジョニーウォーカーを殺したのか。
舞台を観る限り、
それはミミという自分に優しくしてくれた猫を、ジョニーウォーカーが殺そうとするので、
思わずそれを阻止した、というふうに見えた。
けれど、原作では違う。
ナカタさんははっきり言っている。
「自分の中にジョニーウォーカーさんが入ってきた」と。
自分の意志ではなく、他人に体が乗っ取られたこと。
これが、
ナカタさんの苦悩とリンクしてこの物語の重要なカギの一つなのだ。
ナカタさんは言う。
「自分はつねに空っぽだ」
「空っぽだから、誰かにのっとられる。それではいけない」と。

ナカタさんがなぜ文字が読めなくなったかとか、
そんなことはどうでもいいことなのだ。
「なぜ」ではなく「そういう自分をどう思っているか」これが一番大切。
それなのに、
舞台のナカタさんは、単なる「気の好い障害者おじさん」としてのみ描かれる。
一見そのように見えるナカタさんが、
なぜ「イワシを降らし」「石を見つけ」るために選ばれたのかについての考察がまったくない。

ホシノ青年についても、
原作にはたくさんの示唆に富むエピソードがある。
ホシノさんは、「死んだじいちゃんに似ている」というきっかけで
ナカタさんにやさしくするが
そのうち「自分の役割」を自認するようになる。
ベートーヴェンが自分のパトロンのためにつくった曲「大公トリオ」の由来を聞きながら、
天才には天才の仕事を助ける凡人が必要なんだ、
自分は凡人だけど、ナカタさんを助けると言う大切な役割があるんだ、と
自分の人生を初めて肯定的に認めるのである。

しかし、
この点もまったくスルー。

また、
田村少年は、今どきの少年よろしく、あまりものを考えない。
考えないで逃げてきた。本は読む。難しいことは知っている。
ナカタさんと違って、文字は読めるのだ。しかし、考えない。
「たぶん」とかいって判断を避ける。
そして、逃げる。

村上は登場人物の口を借りて、
そういう少年に対し、「もっとちゃんと考えるんだ」「自分の考えを持て」と何度も行っている。
しかしそのあたりを、舞台では重視していない。
ただ「カラスと呼ばれる少年」が、「タフになれ」と励ますだけだ。

そして最初にして最大のナゾ
「なぜ田村少年は、家を出たのか」。

原作では父親が少年に向かい
「お前は父を殺し、母を犯し、姉を犯す」と言い放っているとなっている。
そこが発端だ。
物語の冒頭、舞台の科白はほとんど原作のままだ。
しかしこの決定的な言葉は、口にするのもおぞましく、中盤まで出てこない。
出てきても「予言」という一語でほのめかされ、
具体的に出てくるのは後半である。

しかし舞台ではその頃、
もう「父を殺したのはナカタさん」で「君にはアリバイがある」という「事実」だけが光りを浴び
そんなことより
「佐伯さんは母親なの?」とか
「ナカタさんはどうして西に行くの?」とかそっちのほうへ
観客はリードされていく。
「なぜ僕の手に血が?」のナゾはどうでもよくなってしまうのである。

少年の「父殺し」「母との姦淫」「姉へのほのかな恋心」「家出という冒険」などは
「田村少年の」という個の苦悩ではなく、
「少年時代にはよくある衝動的妄想」として一般化されていく。

こんなにうすぼんやりしたテーマで村上春樹を論じることを、
村上春樹はどんなふうに眺めていたのだろうか。
どだい、
小説は小説として完結した世界である。
舞台と小説は別物なのである。
だから、彼は何も語らないのであろう。

木場勝己のナカタさん造型には、演劇というもののすべてがつまっていると思う。
彼は何度も小説を読み、初心に帰り、常に「ナカタさん」と対峙して演じている。
彼が「単なる障害者」のように描かれているのにそれ以上の何物かに見えるのは、
彼がナカタさんの本質をしっかりとつかんでいるからだ。
そのナカタさんのやさしくて味わいのある科白を受けて立つホシノ青年もまた、
こんなに人間味のある人物としてしみわたってくるのは、
高橋努もまた、原作を読み込んでいるからだと思う。

「観てから読むか、読んでから観るか」。
どちらかで印象ががらりと変わるものかもしれない。
私は舞台を先に観たことで、鮮烈なイメージをいただいた。
だから読み通せた。だから、理解できた。
その意味で、蜷川舞台に大いに感謝する。

最高の、入り口の石。それが、この舞台である。






Last updated  2014.06.25 19:48:23
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2013.01.03
「私に人間的関心の希薄だったことは前にも述べたとほりである。
 父の死も、母の貧窮も、ほとんど私の内面生活を左右しなかった。
 私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、
 人間も物質も、醜いものも美しいものも、
 おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまふ 巨大な天の厭搾機のやうなものを
 夢みてゐた。」


三島由紀夫の「金閣寺」第二章の一節です。

主人公にとって、父の死、母の困窮は絶対的な衝撃を与えていましたが、
その衝撃に倒れまいとしてさらなる鎧で心を武装していく感じが文章に表われています。

この前、映画「8minutes」を観ていたら、
爆弾による無差別殺人を企てた殺人犯の「動機」がこれに似ている、と思いました。

「無差別(殺人)」とは、
「1人ひとり」を「ちがうもの」「大切なもの」と考えていない証拠です。
それは、
とりもなおさず自分が、自分の大切な人が、
周りからちっとも大切にされていないという絶望感から生まれる狂気ではないでしょうか。

生きる醜さを忘れさせる、滅びの美。
一瞬の高揚。
「桜は散り際がもっとも美しい」と感じる私たちに
彼らと同じような狂気がしのびよる危険性がある。
常にその危険性と隣り合わせである私たちと、彼らと、どこがちがうのか。

愛されているか、否か。
愛が通じているか、否か。
認められているか、否か。

少なくとも、愛され、認められる予感がするか、否か。

希望があるか、ないか。

そこだと思いました。






Last updated  2013.01.05 11:01:41
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2012.07.16
今回、三代目中村又五郎、四代目中村歌昇の襲名披露公演のしめくくりが
松竹座で行われた。

夜の部の「口上」、
幕が上がると、そこには早々たるメンバーが所狭しと並ぶ。

座頭の中村吉衛門、兄の歌六、次男種之助(と当人の2人)は当然のことながら、
中村梅玉(高砂屋)、片岡仁左衛門、我當、孝太郎、進之介(松嶋屋)、
中村魁春、東蔵(加賀屋)、中村芝雀(京屋)、
中村錦之助(萬屋)、そして市川染五郎(高麗屋)の15人。

同月、新橋演舞場の市川猿之助・猿翁・中車襲名披露の口上は、
当事者である澤瀉屋の猿之助・中車・團子のほかは
市川宗家の團十郎、海老蔵の2人だけ。
猿翁と父親の段四郎が健康上の理由から不在なのはしかたがないし、
同じ会場での2ヵ月連続であること、
そもそも、演目が演目だけに共演がしにくいことを差し引いたとしても、
この違いはあまりに強烈であった。

松竹座の口上でわかるのは、
先代の又五郎という人がいかに面倒見のよい人であったかということである。
そして、昨日も書いたが、その「又五郎」を継ぐにふさわしい人柄とニンが
二代目歌昇に備わっていた、ということである。
そして、
長い長い歌舞伎の歴史の中で、そういう由緒ある名前を継ぎ、
歌舞伎の歴史の中に連なることの重みと晴れがましさを、
この「口上」という一幕の見世物が私たちに実感させてくれるのだ、と
改めて思った次第。

新橋演舞場の口上も、人数こそ多くはなかったが、
門弟に当たる澤瀉屋の襲名披露に、市川宗家が列するということ自体ないことで、
これはこれで晴れがましい口上だ。

そう考えると、「香川照之」が「市川中車」になる、ということが、
どれだけの重みを持つのかもまた、想像されるというものである。






Last updated  2012.07.21 18:51:18
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2012.07.09
一日経って、まだあの「いわく言いがたい」感情、
生々しいっていうか、気持ち悪いとまではいかないんだけど、
見たいし知りたいけど分かりたくないような、あの感触が、ぐるぐると…。

一体、あれは、何?

そして、今日、突然ひらめいた。
あれは、サルトルの「嘔吐」だわ。



【送料無料選択可!】嘔吐 新訳 (単行本・ムック) / サルトル/著 鈴木道彦/訳

昨日の私は、主人公ロカンタンが、海の、波が打ち寄せる海岸で波を見ていて、
そこで拾った石に突然吐き気を催したのと同じ。

アタマでは考えられないもの、
意味を見出そうとしてもしかたのないもの、
「そこにあるもの」としての存在、
「そこにあるだけでゆるがせにできないもの」
つまり「実存」(existence)ですね。

これがズズズズズズズーーーーーン!と体にもぐりこんできてしまったわけ。

金森氏が哲学者だってことはわかってた。
彼の右脳と左脳がどうつながってんだか、と思ったけど、
そうか、ダンスのできるサルトルだった、と。
まいったな~。






Last updated  2012.07.09 21:30:31
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2012.06.29
「薮原検校」は、井上ひさしの作品。
以前、蜷川幸雄演出、古田新太主演で観ています。
今回は、栗山民也演出、野村萬斎主演。

どちらがどう、ということではなく、
やはり「初見の衝撃」というものは超えようがなく、
その意味では、
脚本がしっかりしているだけに、知っている道を辿るほうが感動は少ない。

しかし、
蜷川演出がいわば「見せ場」で押したとすれば、
栗山演出は「道筋」で語った、というくらいの差はあった。

語りを担当する盲太夫は、浅野和之。
蜷川版の壌晴彦は、「語りのプロ」として圧倒的な存在感を持ち、場を取り仕切った。
それに比べ、浅野は「場を支える」感じ。やさしく、丁寧で、軽妙だった。
どちらも味があり、甲乙つけがたい。

古田と萬斎も、全然違うアプローチながら、いずれも魅力的。
古田さんってのは、ほんとにつかみどころがないけれど、インパクトある。
実は私は、今まであまり古田さんの「薮原検校」をあまり買っていなかったのだけど、
今回、萬斎さんのバージョンを観て、古田さんの魅力に気づいた点も多かった。
特に終盤、クレッシェンドしていくあの破滅的なエネルギーは
彼だからこそ出せるものなのかと痛感。
破天荒な古田に比べ、萬斎は実に丁寧。
彼の鍛えられた喉や肉体は、この主演にもっともふさわしかったと思う。
(五木ひろしから森進一のものまねまで披露するとは思わなんだ。さすが「笑い」のお人! チャーミング)

面白いのは、
古田も萬斎も、「リチャード三世」を主演しているというところ。
のぼりつめる一歩手前で殺人を目撃され
「金ならある、金ならある!」と叫ぶ姿はまさに「馬引け!」をほうふつとさせたから、
奇妙な感覚に襲われた。

ファム・ファタルのお市は、田中裕子に軍配かな。
これは好みかもしれない。
リアリズムに徹した秋山菜津子に比べ、
田中裕子のあの「掃き溜めでもツル」みたいな光り輝く美しさの表現は、
目の見えない杉の市(後の薮原検校)だからこそ、
彼女の「声」だけに象徴される存在美を私たちに見せてくれたような気がする。
私は、それが好みだった。

そして、「群衆」。
私が前見たときもっとも感動した第2幕の入りの「日本橋」の場面。
あれは、蜷川さんの勝ちだったな~。
人数も大事と知る。
ラストの「三段切り」も、蜷川版のスピード感とオゾマシサには届かなかった。
群衆の気持ちと、観客の気持ちの一体感、共通感の差が出た。

それにしても。

私、「歌」を覚えていたんだよね。
井上ひさしの音楽劇の「音楽」は、「ひょっこりひょうたん島」くらいしか評価してないんだけど、
覚えてた。
これ、すごいことだ。
「ミュージカル」だって、一つも印象的な曲がないものがあることがあるのに。
ちょっとおみそれしました。






Last updated  2012.06.30 09:32:43
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