中島三郎助
北海道函館市中島町にある「中島三郎助父子最後之地」碑です。 中島三郎助(さぶろうすけ)は浦賀に生まれ浦賀奉行所の与力を務めた人物です。 1853(嘉永6)年に黒船が浦賀沖に来航した際奉行所は浦賀から退去するように勧告しますが幕府の相応の地位の役人が来ない限り、一切の問答をしないという姿勢を示し戦闘態勢を取り上陸を迫るペリーに対して「自分は副奉行である」と言って通詞の堀 達之助を連れて旗艦「サスケハナ」に乗艦した最初の人物です。 その後、浦賀奉行・戸田氏栄(うじよし)ら重役に代わり香山(かやま)栄左衛門とともに米国使者の応対を勤めています。 アメリカ側の記録には、船体構造、搭載砲、蒸気機関などを入念に調査したことから密偵のようだと記されています。 その後、幕府に軍艦の建造を具申しわずか8ヶ月で日本初の洋式帆船「鳳凰丸」を完成させます。 桂 小五郎(木戸孝允)に造船学を教えたこともあるといいます。 日米和親条約締結後、幕府は長崎海軍伝習所を創設第一期伝習生に選抜されました。このときの同期に勝海舟がいます。 しかし徳川幕府が崩壊し新政府軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争となり中島三郎助は榎本武揚(たけあき)らとともに箱館(函館)に渡り五稜郭を中心とした攻防戦になります。 三郎助は千代ヶ岡陣屋を守備していましたが劣勢のため榎本は五稜郭への撤退を勧告します。 しかし、ここを死に場所と定め、子ども二人らとともに最後まで戦いました。 享年49。 辞世の句 「ほととぎす我も血を吐く思い哉」 幕末のはじめとその終わりに立ち会った希有な人生でした。 明治政府(新政府軍)の元勲らに、徳川家に最後まで尽くした忠節の武士として「幕臣中島三郎助、函館戦争で戦死、忠勇比類なし」と言わしめその武士道に殉じた姿を称賛されています。 かつての陣屋付近は「中島町」と名付けられています。