せともの祭ホーコク
いやー 忙しくってあいだ開いちゃいました20日から九州へ行くんで窯焚いてて・・・-----------大赤字の出たお台場ギフトショー9日の4時から撤収 瀬戸へ向けて移動開始したんは 午後5時40分レインボーブリッジから首都高はすんごい混んでる東名をひたすら西に 名古屋で降りて地球博会場を横目に見て瀬戸についたら午後11時40分宿はとってないんで窯神神社までのぼって運転席で寝ました 荷物満載なんでシートはたおせないとても立派な 磁祖 加藤民吉の像 窯神神社にあります窯神神社は加藤民吉を祭ってるえーと陶器と磁器をあわせて陶磁器ってゆー陶磁器はやきものとゆーたりせとものともゆー陶磁器を瀬戸物とゆーのはなんでか愛知県瀬戸で焼かれたやきものが江戸時代の海運流通のルートにのって全国の市場を押さえたから 陶磁器を「せともの」とゆーよになった へぇ~檜垣廻船/樽廻船/北前船のルートで安価に量産された瀬戸のやきもんが市場を押さえた----------それ以前は九州ではやきものを総称して からつもの とゆーてたこともあるらしー 佐賀県の唐津はぁ~ 唐津焼の産地♪ はなわのふるさとぉ~ だけどぉ 歌ってねぇ~♪また瀬戸隆盛のせいで益子焼の産地 栃木県益子ではやきもの焼くヒトのことを 瀬戸屋とゆー益子焼は信楽の技術をとなり町の笠間が導入して笠間焼として産地化その技術を盗んで江戸時代の晩期に産地化したんでやきもん=せともん ですから~-------ともかく瀬戸はやきものの大生産地やったわけです陶器は生地の粒子が大きくって吸水性があって 土ものという磁器は生地の粒子がこまかくって吸水性なし 石ものという江戸時代初期 朝鮮人陶工の李三平が九州の有田に磁器の土脈を見つけて有田焼をはじめるまでニッポンには陶器しかなかったんですわ その陶器を瀬戸がいっぱい作ってた瀬戸の陶器の祖 陶祖は加藤藤四郎です瀬戸川を1キロばかり行った深川神社に祭ってある瀬戸での陶器生産は室町/戦国/桃山期にかたまって行った桃山の終わりころ まだ磁器はなかってんけど秀吉が朝鮮を攻めたでしょ 文碌/慶長の役で朝鮮は李朝時代で陶器もさかんでしたけどもう磁器もあったんですねーもちろん中国に教えてもろてそんときニッポンの武将のあいだではお茶=茶道がはやってたんですね戦功として茶道具をもらったりしてたわけですわそれで攻めていった武将はハイテク技術者としてたーくさんの朝鮮人陶工を連れて帰ってきたわけ向こうはハイテク技術やから 当時のニッポンやきものレベルからゆーとこの500年前の技術流入がニッポンのやきもののレベルをグっと押し上げた朝鮮人陶工たちが萩/砥部/唐津/有田/薩摩・・・西日本にあたらしいやきものの産地を創始していった------------------そのとき歴史が動いた! 磁器誕生!さっきゆーたように朝鮮人陶工の李三平(イ サンビョン)が九州の有田に磁土の土脈を見つけて有田焼をはじめたら陶器ははげしく落ち目になってしもたんですねー磁器は陶器とちがって白くて硬い 吸水性ないから 染み込みませんしねー真っ白い生地に青の染め付け真っ白い生地に赤絵 キレイですからねー徳川の三代目 家光が磁器の茶碗でご飯食べた最初のショーグン へぇ~上等な磁器=石ものが市場を奪って行く土ものでやってきた瀬戸は落ち目になったなにしろ江戸時代やきもんは各藩の重要な産業ってことで技術は秘密になってるから なかなか流出しないそこで江戸時代晩期に瀬戸の加藤民吉が殺されるかもしれへんけど肥前有田に潜入して1年ほどかけて磁器=石ものの焼成技術を修得瀬戸にも磁器技術がもたらされて・・・土ものの瀬戸 石ものに転換→大復興!そやから磁祖として窯神神社に祭られてるほぼおなしころ京都でも磁器生産がはじまる100~200年くらいあとですよ瀬戸/京都での磁器の生産 有田/鍋島の一手独占やった↑ やぁ なんか今日の日記は格調 高いなぁ--------------寝にくいクルマの運転席で目がさめたら9/10 せともの祭り! 9/10,11の2日間で50万人ほどの人出ここは出展場所が抽選できまる場所がよければすんごく売れるうちは去年までの3回の売り上げ 36 35 21 ことしはイイ場所 48! お台場の大赤字 挽回! お台場サイテー 瀬戸サイコー! 窯神神社 加藤民吉さん ありがとう!===========================すんませんけど今日もまた ↓クリックしてもらえませんやろか お願いします 2位かな3位かな フラバニ強し!てるみん強し!