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2008年08月23日
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カテゴリ:斉藤啓一

〈質問〉KHさん

遅々たるものではありますが、私も「精神の進化」を目指している者です。これまでいろいろな宗教(大学の時は富山の浄土真宗親鸞会に所属していました)や神秘思想を遍歴してきましたが、今はシュタイナーを中心に学んでおります。特に「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」を座右の書にしております。先生はシュタイナーについてどういう考えをお持ちですか。聞かせていただくと幸いです。
 シュタイナーは私見では最も西洋神秘学の伝統を深く受け継いでいる人だと思います。コリン・ウィルソンの「ウスペンスキー」には、もし、ウスペンスキーがグルジェフでなく、シュタイナーに私淑していたら、彼の神秘学はもっと発展できていただろう、との内容がありました。グルジェフについては何故か私は違和感をかんじてしまいます。クリシュナムルティとシュタイナーに現在は最も親近感を感じています。
 ところで、神智学には最近、東條真人さんという人がいて、「ミトラ教」という角度から神智学の研究を進めていらっしゃいます。あきれるほどの博識ぶりですが、彼のようなアプローチはシュタイナーに言わせると「先祖がえり」的な退行的なものになるのではないでしょうか(この点が人智学と神智学を分ける点では)。クリシュナムルティとシュタイナーのような「脱セクト主義」こそが、これからの神秘学だと私は思っています。なぜシュタイナーのことを書いたのかというと、斉藤先生はシュタイナーについて直接言及されることは少ないですが、思考の方向がなにか共通しているように思われたからです。ちなみに私は「アカシャ年代記より」などの本には違和感をどうしても感じてしまいます。しかし、「いかにして」や「自由の哲学」などにはとてつもなく深いものを感じてしまうのです。また、日本への紹介者である高橋巌さんの著作にもたんなる解説を超える深いものを感じます。

 

(回答) 

一般読者に向けて、この質問にお答えするには、まず前提として、シュタイナーやグルジェフとはいかなる人物で、どのような教えを説いたのか、といったことをまず述べなければならないだろう。
 だが、仮にそれを行ったら、このHPすべてをこれだけのために向けなければならないほどの、膨大な量になるだろう。シュタイナーだけを取り上げても、その思想の領域の広さは、神秘学を土台として、芸術や教育などに及び、彼の著作、およびその関係書だけでも圧倒的な量なのである。たとえば、以前、私がロンドンに滞在していたとき、大英博物館の南、歩いてすぐのところに、シュタイナー専門の書店があった。そこで著作リストをもらってきたのだが、「リスト」だけでもかなり厚いのである。だから、私は、シュタイナーを語るほどの勉強は、残念ながらできていないというのが現状である。
 ただ、神秘学者として、彼の代表作といえば、質問にも書かれてあるように、『いかにして超感覚的世界の認識を可能にするか』(イザラ書房)と、その副読本ともいうべき『自己認識への道』(人智学出版社)、それと『神智学』(イザラ書房)であろう。これらは、私も若い頃に熟読した。したがって、読者の方は、ある程度、こうした方面における基礎知識があるものと思って、話を進めて行かざるを得ないので、どうかご了承いただきたい。
 シュタイナーは、人間性を回復させるには「魂」を覚醒させる必要があると感じ、それまで行ってきた自然学やゲーテの研究から、40歳頃に、神智学協会に入会して、霊的世界の研究の道に入った。ところが、誰もが自らの修行によって魂を覚醒させるというのが彼のモットーだったのに対し、神智学協会は、救世主の出現によって救われるとし、クリシュナムルティというインド人少年を救世主として、彼を育てるのが目的となってしまった。シュタイナーはこれに反発して脱会、あくまでも人間個人の内的発達こそが魂の救済の道であるとして、自ら「人智学」を提唱して活動したのである。だが、皮肉にも、クリシュナムルティも同じ考えによって、後に神智学協会から離れ、単独で活動するようになったことは、周知の通りである。
 シュタイナーの優れているところは、彼の霊的な教えを、人間としての高度な倫理観に支えられた上で、あくまでも現実生活の実践を重視したところである。単なる観念的な哲学に終わっていない。これはもとより、彼自身の人間的な高潔さによるということは、いうまでもないことである。シュタイナーの著作を読んでも、いかに彼が誠実な人柄であるかがよく伝わってくる。晩年はナチスの迫害などに苦しんだが、その強い意志を最後まで貫き通した希有の人物であった。
一方、ロシアのグルジェフは、同じ魂(意識)の覚醒をめざした点で同じであり、シュタイナーと同様、ダンスなどの芸術にも力を発揮したが、彼の場合は、やや「山師」的なところがあり、常識はずれな言行がめだつ、破天荒な人物であった。もちろん、それも弟子に刺激を与えるという目的があったわけではあるが、なかなかのくせ者であった。ただし、私は彼のような導き手がいても、それはそれなりにいいとも思う。けれども彼は、覚醒するためには指導者の存在が必要不可欠だというのが原則であり、私はその点においては、必ずしも同意できない。というより、仮にそうだとしたら、個人的な修行よりも、まず師匠を求めることから始めなければならず、真の意味で理想的な導師に出合うことは、実際問題として困難であり、そうであれば、この世界のほとんどの人が絶望ということになってしまうので、その考え方は、まず私の選択肢からは最初にはずされているのである。
 彼自身、本も何冊か書いているが、その教えはむしろ、弟子のウスペンスキーの『奇跡を求めて』(平河出版社)において知ることができる。また、やはり彼の弟子ベネットによる『TRANSFORMATION』(邦訳はたぶんないと思う)なども、実践的な視点から書いてあって参考になる。
 ところで、シュタイナーにしろグルジェフにしろ、歴史的な神秘学者として位置づけられているが、そもそも「神秘学」というとき、それは何を意味するのだろうか?
 学術的な定義があるのかどうかはわからないが、神秘学とは、いわゆる「神秘主義」のグノーシス的学問である。グノーシスとは、真理を知識として体系化した学問であり、知識を通して高い霊的境地を開拓しようとする教えである。一方、神秘主義とは、神や霊的世界との直接的な認知体験を得る教えである。つまり、「神の学問」ではなく、直接に神そのものを知ること、といえよう。そこには、当然、いわゆる「神秘体験」なるものが介入されてくる。
 つまり、神秘学というのも、その本来の目的は直接的な神(ないしは真理)の認知なのであり、そのための理論体系や知識などは、単なる手段に過ぎない。いってみれば「道具」であり、建築の足場なのであって、目的さえ達成されれば、もうそれは必要ないものであり、むしろ足場などは、建物の邪魔にさえなるだろう。したがって、神秘学が「セクト主義」になるということ自体が、まるでナンセンスということになる。鉛筆の芯を削るのに、ある人は鉛筆削りで削るだろうし、ある人はナイフで削るかもしれない。別に、どちらでもいいことである。
 ところが、人間というものは、形のないものを認知することが、そう容易にできるわけではない。ここが非常に問題になってくる。たとえば、「神」というとき、空の上に住んでいる白い老人といったイメージがある。もちろん、そのことを本気で信じている人はいないだろうが、何となく、そのようなイメージを抱いてしまう。あるいは、もっと知的に優れている人であれば、神というものを、あたかも宇宙法則のような、無形の抽象的概念で把握しているかもしれない。
 しかしながら、神は、無形の抽象的概念でもない。「神」という、ほんのいかなる、またわずかな概念であっても、それは決して「神」ではない。そもそも、「神」という言葉さえ、それを使用したときに、それは神ではなくなってしまう。
 したがって、神秘学で説かれているさまざまな教理も、その意味では決して真実を説いているのではない、ということになる。かといって、人間のいかなる意識概念にさえもひっかからないほどの超絶的な存在である神を、私たちはどのように探求していったらいいのだろう?
 確かな手応え、自分が知っているという感覚、このようなものがなければ、人間は不安でしかたがない。まるで上も下もない宇宙空間を漂っているかのような気持ちになる。足をしっかりとつける大地が欲しくなるのだ。そして、それが今日における「神秘学」だとか「グノーシス」なのである。
 これらが、あくまでも魂の覚醒のための手段だとしっかりと自覚しているのであれば問題はない。だが、いつしか、この「知識」なり「学問」が、「目的」になってしまう。しかも、これが人間のエゴのために利用されてしまうようになる。つまり、「力への意志」をもつエゴを強化させてしまう。そして「自分が一番偉い」ことを誇示するために、神秘学が利用されるようになる。そうしてセクトが生まれる。いわゆる「シュタイナーの権威者」といった人たちが生まれる。こうして人間は、「道具」に使われるようになる。そして、道具としての本来の使い方をすることなく、ただ道具とたわむれ、道具とたわむれているだけなのに、まるで自分自身が進歩しているかのような幻想を抱き、そこに埋没するようになってしまう。
 こうしたことを、もっともよく理解して説き続けてきたのがクリシュナムルティである。ところが皮肉なことに、彼の教えでさえも、多くの人は自らのエゴを強化するために利用してしまっている。
 こうしたことは、シュタイナーの意図とは違うものだったであろう。彼の教えは、芸術や教育の画期的なアイデアを導き、それがいわゆる「シュタイナー教育」ということで実行されている。それはそれなりに意義のあることだと思う。だが、「教育」は、概念の上に成り立っているのだろうか?
 愛が概念ではないように、教育も概念ではない。子供を愛している教師は、概念や理論で子供を導いているのだろうか? そうではない。真の教師にとって、子供への「教育」は、「愛」そのものである。そのような教師にとって、子供を教えることと、子供を愛することとは、同義語なのだ。そこにな何の区別はない。教育とは、愛の表現そのものである。
 もしも、神と直接的に交流し、神を知りたいならば、すなわち、神秘学が本来めざしている目的に到達したいならば、神についての知識や理論を学ぶ以前に、神を愛することではないのだろうか? そして、神を愛するとは、神が望まれるように、自らを捧げるということではないだろうか?
 自らを捧げるには、上も下もない宇宙空間に平気で飛び込んでいける勇気が必要である。また、神が望まれていることとは、私たちがお互いに愛しあうことである。
 真の意味での隣人愛があれば、シュタイナーを学ぼうと、グルジェフを学ぼうと、その本物を学ぶことができるだろう。だが、愛がなければ、シュタイナーもグルジェフも、単なる自己満足的な娯楽以上のものにはなり得ない。私はそのように考えるのだが。






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最終更新日  2008年08月23日 11時52分08秒
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