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カテゴリ:考察
呪術廻戦 両面宿儺
※本誌のネタバレが含まれていますのでご注意ください 今日の本誌にて飛騨霊山浄界という両面宿儺の伝承にまつわる名前が出てきましたね! 一巻の表紙には宿儺と思しきミイラ(即身仏)っぽい男が描かれています ミイラは脳も心臓なども残っていることもあるようで…呪術廻戦では呪物として残っているのだろうと思います また虎杖悠仁が何やら九相図を食べるのではないかと思われる描写もされましたね… 宿儺が九相図に移った場合はどうなるのか?という質問に「宿儺が九相図を乗っ取る(勝つ)」のような回答を芥見先生がされていましたので反映されそうですね! (1):飛騨霊山浄界と両面宿儺 両面宿儺は上古、仁徳天皇の時代に飛騨に現れたとされる異形の人、鬼神です 『日本書紀』において武振熊命に討たれた凶賊とされる一方 岐阜県の在地伝承では毒龍退治や寺院の開基となった豪族であるとの逸話もあります 両面宿儺は計八本の手足に頭の前後両面に顔を持つという奇怪な姿で描写されます 神功皇后に滅ぼされたとされる羽白熊鷲や『日本書紀』、『風土記』にしばしば現れる土蜘蛛と同様その異形は王化に服さない勢力に対する蔑視を込めた形容とも言われています 仁徳紀の記述は大和王権の勢力が飛騨地方の豪族と接触した5世紀における征服の事実の反映とされています また飛騨地方において4世紀には既に三日町大塚古墳や亀塚古墳などが築造され時期的に一度朝廷の勢力圏に組み込まれました しかし反乱が起こりそのときの服属過程を表すものと見たほうが良いとの指摘もあります また「ひかがみ」「かかと」が無いという描写から脛当てを着け足半草履状のつまがけ(爪皮:つまがわ)を履いた飛騨の山岳民が想像されることもあります (2):それぞれに伝わる伝承 ⚪丹生川の伝承 元和7年(1621年)の奥書を持つ『千光寺記』には高山市丹生川町下保にある袈裟山千光寺の縁起が記されています 仁徳帝のころ飛騨国に宿儺という者があり八賀郷日面(ひよも)出羽ヶ平(でわがひら)の岩窟中より出現した。 身のたけは十八丈、一頭に両面四肘両脚を有する救世観音の化身であり、千光寺を開いた このとき山頂の土中に石棺があり、法華経一部・袈裟一帖・千手観音の像一躯を得たそうです 同じく丹生川町日面の善久寺の創建も両面宿儺大士と伝え、本尊釈迦如来のほかに両面宿儺の木像を安置しています また位山(高山市一宮町)の鬼「七儺」を両面宿儺が天皇の命により討ったとも言われています 位山の付近には飛騨一宮水無神社(ひだいちのみや みなしじんじゃ)には享保年間に編纂された『飛州志』 そこには神宝の一つとして「七難の頭髪」を挙げ神主家の説として鬼神七難が神威により誅伐された伝承を記されています ⚪金山の伝承 『金山町誌』には武振熊命が討伐に来ることを知った飛騨の豪族両面宿儺は八賀郷日面出羽ヶ平を出て金山の鎮守山に37日間留まり津保の高沢山に進んで立てこもったが敗れて討死したと伝わっています また出波平〜金山の小山に飛来した両面宿儺は37日間大陀羅尼を唱え、国家安全・五穀豊穣を祈念して高沢山へ去った 故にこの山を鎮守山と呼び村人が観音堂を建てて祭ったともいわれています ⚪関市下之保の伝承 『新撰美濃志』には引く大日山日龍峰寺の寺伝として飛騨国に居た両面四臂の異人が高沢山の毒龍を制伏したとされています その後、行基が伽藍を創建し千手観音の像を安置したそうです 千本桧はこの異人が地に挿した杖が生い茂ったもの或いは この異人は飛騨より高沢山に移ってのち、霊夢の告により観音の分身となったとも言われています 『美濃国観音巡礼記』には日龍峰寺の開基を「両面四手上人」となっています この他に両面宿儺を討った武振熊命の建立と伝わる八幡社が飛騨各地にあります (3):両面宿儺の概要 ⚪両面宿儺が大和王権に抗した古代の豪族としてその土地の人々が尊崇しています しかしその伝説の多くは江戸時代以降に記されたもので江戸期における信仰が在来の伝承に基づくとしても『日本書紀』に登場する両面宿儺を寺院の創建と結びつけることは難しいのです 在地伝承に現れる両面宿儺に王権によって矮小化され観音信仰の蔭に隠れるようにして生き延びた英雄の名残を見いだし 位山を神体とする飛騨一宮水無神社の本来の祭神に想定する研究者もいます ⚪日龍峰寺の縁起では両面宿儺は身に鎧を着て四つの手にはそれぞれ鉾・錫杖・斧・八角檜杖を持ちその存在は救国の英雄だとしています 『日本書紀』の伝承について仁徳天皇の時代は5世紀前葉の時期でこの時期に仏教が日本列島に到来したことは考えられず この頃の日本各地で伝統的信仰による祭祀の最盛期、古墳全盛の時代、寺と称される記述もあります 当時の寺の意味は行政機関の意味が強く宮(支配者層の住居又は執務を行う場に相当する) また両面宿儺を退治したとされる武振熊命も仁徳朝より時期が少し早い神功皇后・応神天皇の時代に活動した武将なので伝承が全体として整合性がないとも言われています ⚪両面宿儺像は千光寺・善久寺・日龍峰寺などにあります いずれも頭の前後に顔があり唐風の甲冑を着け斧や剣を帯びています 善久寺のものは合掌した手に斧を横に持ち韋駄天の像容に類似しています また円空作と伝えられる像(千光寺蔵)は二つめの顔が肩に並んでいます 2006年の発掘調査にて近畿地方の和歌山市・岩橋千塚古墳群にある大日山35墳(6世紀前半)から前後両面に顔を持つ人物埴輪(頭部のみ)が出土しています この両面埴輪は貴人埴輪に多い下げ美豆良をしています しかし両面宿儺との関連については現在のところ明かにはなっていません 頭部や腰が結合した状態で生まれてくる事例は現実にもあります 一つ目小僧と同様、医学的に説明がつきます しかし一つ目小僧が民俗学や医学の分野で語られるのに対し宿儺は考古学的見地からよく語られることが多いです ⚪『古事記』に登場する伊予之二名島(四国島)・筑紫島(九州島)がそれぞれ四面一身の神として語られています ⚪下呂市金山町中津原の下原八幡神社は両面宿儺を討伐するために飛騨へ来た武振熊命が当地に仮の斎場を設け武神(八幡神)を祭ったのが神社の起源と言われています ⚪山国御陵浄界とは 鎌倉時代だと光厳天皇の常照皇寺(山国陵)や室町時代(南北朝時代)の後花園天皇などが有名ですね 後の日野富子や藤原家など密接に繋がりがあります この辺りはまたいずれ話しますね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.04.18 08:19:24
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