【二子山古墳】 古墳の前後、誰がきめたの?
「古墳の前後と名づけ親」 今日は古墳の後円部分からくだって、 くびれの部分さ下りてみた。 後方部分は、登り坂になってるど。 そういや『八幡塚古墳の前方』も、 こったら風に先があがってたな。 これってなんか意味さあんのかな? どこの『前方後円墳』でも、 こったは感じに前があがってんだべか? 不思議だな。 そういえは、『前方後円墳』っと呼び名も変。 なんで四角い部分が前で、丸い部分が後なんだべな。 これにゃちゃんと、理由があんだよ。 江戸時代の話なんだともな。 宇都宮藩に『蒲生君平』って学者がいてな。 この人が『古墳』って呼び名をつけたんだ。 それまでは『天皇陵』とか『山陵』とか『陵墓』って呼ばれてたらしい。 天皇のお墓って意味だな。『蒲生君平』は近畿地方にあった『陵墓』を見て、 余りにも荒れ果てた姿に、愕然としちまってな。 本格的に整備・研究をはじめた、って話だど。 で、その後。『山陵誌』って本を書いたんだと。 もしかして、日本で初めての、古墳専門本だべか。 ちょっと、見てみたいね。 で、『前方後円墳』の前後の由来だけんど。 古墳の形が、車に似てるからなんだって。 車っつうのは、現代の自動車のことじゃ~ないど。 江戸時代の話だから……そだな、 人力車みたいなもんを、想像すっといいかな。 あ、平安時代の貴族が使ってた、牛車でもいいな。 で、引っ張る部分を、古墳の四角い部分に。 人を乗せる箱の部分を、古墳の丸い部分に当てはめたらしいんた。 そうすっと、引っ張る棒があるほうが、車の前になっから、 古墳も四角いほうが前、って話に決ったんだね。 っつ~ことは。 発掘の結果で決ったわけじゃ、ないんかな。 んじゃ~もしかしたら、実際は、 丸いほうが前だったかも、しんないんじゃないけ? 古墳時代の人たちは、どう考えていたんだべな? おお~っと~。 そったら悠長なこと、考えてる場合じゃなくなってきたど。 風っこ、強くなってきた。も~、前さ進めない。 いんや、そったらことよりも、転げ落ちる可能性のほうが高くなってきたど。 き、危険だ!降りよう。 でも、どうやって? キョロキョロしてたら、北の斜面になんか展示物を発見した。 坂の途中だし、いってみっかな。 と思ったら、強烈な向かい風! い、息ができないど! ほ、ほんとに危ない。はやく退避しないと、だみだ! 撤退~。撤退~。 風さ避けて南側の斜面を下りることにした。 あ、後で知ったんけと。 斜面にあった展示物は、古墳の周りさ囲んでた埴輪と それを修理した跡なんだって。 古墳の埴輪はな。飾った後もきちんと管理されて 破損したら取り替えたり、修理されてたらしいんた。 その痕跡が、北の斜面にあったらしいど。 …それは、みたかったな~。残念。 くねくねした坂道を下る。 ここはちょうど前と後の境目。くびれの部分的だな。 顔さあげると『中島』もめ~たよ。 そういや近畿地方にある『前方後円墳』の中には、 くびれの部分に広場のような出っ張りが くっついてる古墳があんだって。『蒲生君平』は、そのでっぱりを、車の車輪部分に見立てたらしいど。 なるほど。それだと上からみたときに、車と古墳の形が似て見えるね。 今の時代だと、なんにめ~るかな? 《参考》宇都宮城物語 / 福田三男 【単行本】価格:1,620円(税込、送料別)************************************* 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村**************************************