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「宍ヶ崎櫓の土塁」 『宍ヶ崎櫓跡』にある『土塁』 小さいな。高いとこでも1メートルないかも? だども、長い。 『曲輪』の半分は、『土塁』になってるみたいだね。 昔の絵地図によると、この上に塀があったみたいだけど。 これは『土塁』っつうより『塀の土台』の役目さしてたんだべな。 さて。今日は『佐白山』の話さしてみっかな。 時代は鎌倉。1200年前半のころだど。 あ、そのころは『佐白山』じゃなくって 『三白山』っていわれてたらしいんだけどな。 『三白山』にゃ『正福寺』ってお寺さあってな。 僧坊がいっぱいあったんだって。 あ、もしかして『笠間百坊跡』って、『正福寺』の跡だったのかな? ええと。そんでな。 笠間の北のほうに、『引布山』ってのがあんだけど。 山の麓。南側のあたりに『徳蔵村』ってのがある。 そこの『徳蔵寺』と『正福寺』の間でな。いざこざさあったんだと。 だんだんいざこざが激しくなるもんでな。 『正福寺の生田坊』は下野国の『宇都宮城主・宇都宮頼綱』に、援軍さ頼んだんだ。 当時の笠間は、宇都宮領だったんだって。 だから、『正福寺の生田坊』は 自分とこの大将に、援軍さ求めたったことだね。 もしかしたら、喧嘩の仲裁を頼んだのかもしんないな。 『宇都宮頼綱』は、甥で猶子になっていた『塩谷時朝』を派遣した。 『塩谷』ってのは、下野国の北を治めていた一族でな。 今でいうと、矢板ってとこあたり。 『川崎城』が本拠地だったみたいだど。 当時の『川崎城主・塩谷朝業』は『宇都宮頼綱』の弟でな。 その息子が『塩谷時朝』なんだ。 これは『土塁』の端っこ。 向こうに細い道がめ~るよ。 通れるのかな? 地図じゃ~、奥まで続いてるみたいだど。 いってみたいけど、今回はやめとこ。 目的地は別だからな。 んで。『塩谷時朝』の話だけんどな。 『時朝』は、『徳蔵寺』を制圧。 さらに『正福寺』まで攻め落としてちゃって。 『三白山』に城を築いて、笠間に落ち着いた。 そんで『笠間時朝』って名乗るようになったんだと。 なんでまた、味方のはずの『正福寺』まで、せめ落としちまったんだろな。 なんか『時朝』の気に触るようなこと、したのかな。 ほてほてと。『長い曲輪』を進んで行く。 出口辺りから振り向いたとこ。 両側は木や草で覆われてて、わかりにくいけど。 たぶん崖だと思う。 さてさて。 ここさ抜けると『笠間城最大の曲輪・本丸・八幡櫓跡』さ出るど。 もう。山登りはないかんね。 慌てずに、いくべw。 《参考》
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最終更新日
2014.02.07 00:10:34
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