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「中世宇都宮氏展 皆川家の甲冑」
戦国時代といえば、やっぱり、甲冑だね。 『中世宇都宮氏展』にも、いくつか鎧や兜が展示されたたど。 たとえば 『三十八間星兜(さんじゅうはちけんほしかぶと)』。 宇都宮市の、二荒山神社に伝わるものでな。 『藤原秀郷(ふじわら ひでさと)』が 奉納したっつう伝承があんだ。 だどもこの兜。 南北朝時代に制作されたものみたいでな。 秀郷の奉納したものじゃ、ないんじゃないか? って話もあんだ。 矧板(ひきいた)っつう、細長い鉄板が三十八枚 使われてんだって。 それを小星(こほし)っつう、小さい鋲で つなぎ合わせてな。 また、鋲を裏から打って、星の形を表現させてんだって。 これが、兜の名前の由来にも、なってんだと。 ほほう。するとあの、表面にぼちぼちと 並ぶようについてる突起物は、星なのか~。 沢山あるな~。いくつくっついてんだろ? みんな手作業で、打ち付けたんだよね。 職人技だな~。すげ~。 全身用も、あるど。 『魂糸威二枚胴具足付三十二間筋兜 (こんいとおどしにまいぐそくつけたりさんじゅうにけんすじかぶと)』 これ、どこで区切ったらいんだろw。 ええと。全体的に紺色した鎧だな。 額に、金色した笹の葉みたいなものが三枚。 くっついてんのが、目をひくど。 これは、皆川家に伝来した甲冑なんだって。 お。『皆川家』といえば、今の栃木市あたり。 『皆川城』や『太平山城(富士山城)』などを 築いた一族だな。 『皆川家』も、何かと活躍してるんだよな~。 注目の一族なんだけど、そういやあんまし知らないな。 『宇都宮氏』とも、つながりあったはず。 その辺の詳しい資料さ、ないかな? ん? 誰かの肖像画があるど。 誰だんべ? 大分歳食ってるな~。 ええ~と、なになに?『皆川広照像』? あらま~。『皆川広照(みながわ ひろてる)』といえば、 『皆川家』で、一番有名な人じゃなかんべか。 『織田信長』に馬さ送ったり、 『皆川城』に攻め込んできた『北条軍』を撃退したり(草倉の戦い)、 『北条家』裏切って『小田原城』から脱走したり(小田原城の合戦)、 した人だよね。 この肖像画はたしか。 晩年のものって書いてあったから、 お年寄りなのは、しゃ~ないな。 前にみた、『芳賀家』の像が若いときの絵だったから 余計、しわしわにめ~ちゃうんだな~。 それにしても、額の広い人だな。 頭もでっかいんじゃないけ? ちょこんと乗っかった烏帽子が、 ちっこくめ~るよ。 頭脳派、だったんかな~。 ごまかしは、効かなさそうだよ。 目付きがちょっと、おっかない。 ちなみに、『皆川広照』は 『宇都宮国綱(うつのみや くにつな)』と 戦ったことがあんだって。 『宇都宮国綱』は『豊臣秀吉』側に、 『皆川広照』は『北条氏』側についてたもんだからな。 いざこざに、なっちまったんだな。 天正16年(1588)。 『宇都宮国綱』は『真名子城』『諏訪山城』などを攻めつつ、 『皆川城』を目指した。 対する『皆川軍』は、『布袋ケ山城』に篭って迎え撃つ。 ところが『皆川軍』にゃ、将兵が数千人しかいない。 『宇都宮軍』は約二千騎。 プラス『佐竹軍』の援軍あり。 『皆川軍』は劣勢になり、『布袋ケ山城』の下まで、 攻め込まれちゃった。 と、ここでやっとこ『皆川軍』にも援軍がきた。 『佐野氏忠』が送ってきた援軍と『壬生軍』が 『宇都宮軍』を攻めたてた。 だもんで『宇都宮軍』は引き返し、 『皆川軍』は、大きな打撃を受けちまったけど、 なんとか助かったらしいど。 もしかして、 今回展示されてる『甲冑』は、こんとき着てたのかな~? ガイドブックによると、 江戸時代中期ごろ、 皆川家が、旗本だった時代に作成したんじゃないか、 って言われてんだって。 ちょっと時代が違ったね。 『皆川広照』が着てたものじゃ、なかったんだ。 だども、きれいに保存されてるもんだね。 そったら派手でもなく、紺色でまとまってるとこも、 いいかんじ。 少し立ち止まって、じっくりみたい逸品だな。 《参考》 ・栃木県立博物館 特別展ガイドブック 「中世宇都宮氏 ~頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族~」 ・下野戦国史 皆川広照の生涯 大森隆司・著 大阿久岩雄・指導 下野新聞社 《こんなの めっけた》
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最終更新日
2023.07.14 00:35:48
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