7671065 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

「きらりの旅日記」

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

カレンダー

プロフィール

ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2019.06.03
XML
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​まぁ~私は先祖代々の仏教徒でありますが~ヨーロッパを旅すると美しい聖母子像に心を奪われ、その素晴らしい作品の画家さんたちにも興味を深めてしまうのでありますが。それがっ!おやま~知らない事がまだまだ


きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第37回


ブリッセル王立美術館LEVEL=2「古典美術館」にて
2019年(平成31年最後の4月)訪問
手書きハートクエンティン・マサイス手書きハート
QUINTEN METSYS
Leuven 1465・1466-Antwerpen 1530

MARIA MET KIND


クエンティン・マサイス・・・とは?
 Quentin Massys
 Quinten Massijs

1465年・1466年?-1530年

フランドルの画家

主に宗教画・風俗画・肖像画等を多く描いた。


作風は・・・

イタリアルネサンスと北方ルネサンスとの融合である。


マサイスは・・・

1465年?1466年頃にルーヴェンに生まれる。

父親は、腕の立つ鍛冶屋であった。

1507年に完全に独立した画家となるまでの

マサイスの経歴には、不明が多い。


おそらく、

ルーヴェンのディルク・ボウツの工房で修業したようだ。

1491年、アントワープに移り画家組合に親方として登録。

この頃より大画家としての名声を得た。


1492年頃、最初の妻と結婚、3人の子どもを得る。

1508年、再婚、さらに10人の子どもを得る。

その子どもの中には、

フォンテーヌブロー派のヤン・マサイスがいる。

このヤンの息子の(同名の孫)クエンティン・マサイスも画家である。

マサイスは・・・1530年、疫病で没する。


マサイスは・・・

当初は、ウェイデン、ボウツ、グース等の

影響を受けた宗教的題材を描いていたが

次第に風俗画的絵画へと移っていった。


画風は・・・

技巧的で優雅なものとなり

アントワープにおける代表的な

マニエリスム様式の画家になった。


マサイスが・・・

イタリア絵画、特にダ・ヴィンチに

深く傾倒していたのは明らかであり

それは、例えばスフマートの技法やカリカチュア

肖像画の構図に見てとれる。


またファン・エイクの伝統的手法からも

多くを学んでいたようである。

晩年には、画力の衰えが見られ

絵に感傷的傾向が強まって行った。


マサイスの風俗画は、

道徳教育的な内容がしばしば見られる。

いわゆる人間の不徳

生命の儚さの告発であり

マサイスは、

絵画史におけるこのジャンルの開拓者とみなされている。

例えば・・・

代表作『両替商とその妻』

パリ『ルーヴル美術館』版

ブリュッセル『王立美術館』版



ほか『不釣り合いなカップル』は、

エラスムスの著作との関係が指摘される。

後者のモチーフは、

『愚痴神礼賛』の一節

「小娘に惚れこんで、うぶな若僧そこのけの狂気沙汰をやってのける」

にあたるものである。


マサイスは、エラスムスと知己であり

彼の肖像画も描いている。

またそれらの風俗画には、

グロテスクへの偏愛が見て取れ

ダ・ヴィンチと同じく若者と老人の組み合わせに

妙味を感じていたようである。
(資料=ウィキペディア様より)



・・・つづく・・・

​​​​​​​​​​​​​​​​​​古典美術館におとめ座ぽち右矢印にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019.06.03 00:10:17
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.