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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2020.10.09
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​青年マネは、ヨーロッパ各地の美術館巡りをして多くの作品からヒントを得てパリに戻って来ましたスマイルマネは、自信に満ちた図々しい態度が目につくように・・・おやっ?


葉​​エドゥアール・マネと詩人ボードレール​​葉



パリ『ルーヴル美術館』にて

手書きハート手書きハート手書きハート手書きハート
エドゥアール・マネ 

​Edouard Manet​


1832年1月23日〜1883年4月30日(51歳没)


19世紀フランスの画家。『近代絵画の父』と呼ばれ、


近代化するパリの情景や人物を


伝統的な絵画の約束事にとらわれず描き出し


革新の担い手となった著名な画家である。


代表作『笛を吹く少年』


華々しい作品を発表する前から・・・



マネは、その自信に満ちた図々しい態度や


人をあざ笑うような口調で有名になっていた。


​1856年、マネ24歳の時・・・​


トマ・クチュールのアトリエを去り


動物画家:アルベール・ド・バルロワと


ラヴォワジエ街のアトリエを借りる。


「歴史上の人物を再現するなんてひどい冗談だ!

 真実はひとつしかない。

 見たままをただちに描く。

 うまくいけば、それでいい。

 うまく行かなければ、もう一度、描く。

 それ以外は、すべてでたらめだ」


・・・アントナン・ブルーストが記録した​マネの言葉​


​​マネ『チュイルリー公園の音楽会』​​1862年

青い上向き矢印帽子をかぶった女性は、ルジョーヌ夫人である。


彼女の家で、マネは


詩人&美術評論家:ボードレールと知り合った。


この絵のなかでボードレールは、


ルジョーヌ夫人の真上に横向きに描かれている。


その左側にいるシルクハットをかぶった髭の男は


画家:ファンタン・ラトゥールだと思われる。


​1856年、クチュールのアトリエを去った時、


マネは、当時の若者たちの心をとらえる


革新的な輝きを放っていたきらきらきらきら


しかし、彼らの期待とは裏腹に


マネは、すぐにサロン「官展」へ出品するための


作品を描こうとはしなかった。


「サロンへ挑む前に、偉大なる先駆者たちを訪問する必要がある」


と、マネは述べている。


1859年までマネは『ルーヴル美術館』で


ティントレット 、ベラスケス、ルーベンスの絵画を模写しつづけ


そこで、画家:ファンタン・ラトゥールや


画家:エドガー・ドガと知り合った。



​1859年(マネ27歳)になって・・・​


マネはようやくサロンに最初の作品を出品した。


マネ『アブサンを飲む男』

この絵は、マネがはじめて「サロン」から拒否され


スキャンダルを引き起こした絵画である。


しかしこの時、


マネは最初の成功も収めた。


この作品は、審査委員の中でも


画家:ドラクロアだけには認められ、それ以外に


詩人:ボードレールからも賞賛されたグッド


まるで下絵のような無造作な描き方に加えて


作品のテーマも審査員たちを不快にしたほえー


酔った男と足元に転がる酒瓶は、


寓意ではなく、ありのままの現実を描いたものだったため


「サロン」には、ふさわしくないと判断されたのである。


マネは、この作品でみずからの主題を宣言するとともに


おそらく酒と麻薬を歌った


ボードレールの詩への共感を表したのだろう。


1859年の時点で・・・


マネとボードレールはすでに親しい友人となっていた。


かなり若いときから、


マネはマネ家の友人で大勢の芸術家を招いていた


「ルジョーヌ少佐」のサロンで


ボードレールと頻繁に会っていたようである。


「落選通知が来たとき、

 ぼくたちは、彼のアトリエで

 ボードレールと一緒に座っていた。

 クチュールとドラクロアの話がつづいた。

(・・・)『つまり』とボードレールがいった。

『自分自身でいるべきだということだ』

 マネはいいかえした。

『それは、ぼくがきみにいってきたことじゃないか。

 それとも、『アブサンを飲む男』では

 ぼく自身ではないというのかい』。

『う〜む』とボードレールはいった。

『ああ、ついにボードレールまで

 ぼくの悪口をいいはじめたぞ!』」


ブルーストが記録したこの会話から


ボードレールが友人として


マネを全面的に支持していたことがわかる。


彼は、この1859年にも


『草上の昼食』

『オランピア』


をめぐるスキャンダルが起きた1860年代初頭にも


手紙以外では、公然とマネを庇護する文章を書いていない。


しかし、折に触れて、


彼は自分なりの方法でマネを力づけていたのである。


ボードレールは・・・


マネにはあまり想像力がないと考えていた。


あるいは、


成功を手に入れることに必死になっているマネの姿を見て


それが彼の大きな弱点であることを見抜いていた。


とはいえ マネは、ボードレールが


自分のことを画家として高く評価していることを知っていた。


ボードレールは、1856年に、


マネの作品について、こう書いている。


「さまざまな欠点や難点

 安定感のなさが見られるが

 たまらない魅力がある。

 私は、それらのすべてを知っているし

 そのことを理解した最初の一人でもある」


さらに彼は、1862年に行われた


エッチング画家展に関する記事のなかでも


マネの名前をあげている。


「次のサロンでは、

 スペイン趣味が強烈に刻みこまれた彼の絵を

 難点も見ることができるだろう。

 まるでスペインの天才がフランスに亡命してきたような

 すばらしい作品を」


ファンタン・ラトゥール『ドラクロワ礼賛』


白いシャツを着ているのが「ファンタン・ラトゥール」

その右側に立っているのが「ホイッスラー」

ドラクロアの肖像画の右に立つのが「マネ」

その右は、画家「バルロワ」と版画家「ブラックモン」

その前に座って一番右が「ボードレール」

その左が小説家「シャンフルーリ」


「私は仕事柄

 道すがら人々の顔

 表情を注意深く眺める癖がある。

 この能力から

 どれほどの喜びが生まれてくるか

 わかるだろう。

 その能力は、

 他の誰にとってよりも

 生き生きとした

 有意義な人生を見せてくれる」。

・・・ボードレール『綱』マネに捧げられた作品


​ボードレール・・・とは?​

​Charies-Pierre Baudelaire​
シャルル=ピエール・ボードレール

1821年4月9日〜1867年8月31日(46歳没)


フランスの詩人・美術評論家(象徴主義、モダニズム)


代表作『悪の華』1857年


没後の出版『パリの憂鬱』1869年


1845年、詩人:ボードレールは、


官展(サロン)の美術批評家として文壇に登場する。


1845年のサロンから、1846年のサロンにかけて


彼は、ロマン主義の画家「ドラクロワ」を


新古典派からの攻撃に対して庇護する。


もっとも「庇護」という表現は必ずしも事実ではない。


厳密にいえば、


その当時すでにロマン派と新古典派の対立は、


下火になっていたのであり、


ドラクロワは、アングルと並ぶ巨匠とみなされていた。


ボードレールがドラクロワに


庇護してもらうことを期待していたのではないかとも思われる。


美術評論は、1855年『万国博覧会』


1859年の「サロン」と続く。


1867年、マネが35歳の時にボードレールは病死した。


(資料:ウィキペディアさまより)
(資料:Manet Jai fait ce que jai vu.フランソワーズ・カシャン氏著)

(写真撮影:ほしのきらり)

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最終更新日  2020.10.09 00:10:08
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