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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2022.01.26
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​ワシリー・カンディンスキーの青騎士時代のことを詳しく調べてみましたスマイル


パリ「ポンピドゥー・センター」国立近代美術館内

VASSILY KANDINSKY
ワシリー・カンディンスキー

1886年12月4日〜1944年12月13日(78歳没)

ロシア出身の画家・美術評論家・理論家。

ドイツ・フランスでの活躍目覚しく両国の国籍取得。

抽象絵画の創始者。

フランツ・マルクと『青騎士年鑑』を刊行。


1910年代初めのミュンヘンにおける

前衛運動を語る時、

「青騎士」をグループとして、

さらにはひとつの流派として語る・・・

それも理由なしとしないが・・・

ことが慣わしとなっている。


しかしながら実際問題として、

​真に「青騎士」と呼べるのは・・・​

1912年12月に刊行された​『青騎士年鑑』​を編集した

カンディンスキーフランツ・マルクだけである。


彼らはまたミュンヘンで2回の「青騎士展」を開いたが、

第一回の絵画展は、1911年の12月、

第二回の版画・素描展は、1912年1月のことであった。


やはりミュンヘン新芸術家協会の脱退者であった

ミュンタークビーンは確かにこのサークルに属していたし、

『年鑑』のために重要なエッセーを寄稿し、

人類学的な資料を集めたアウグスト・マッケも同様である。


クレーは、まだ「雑魚」にしかすぎなかったが、

招かれて17点のデッサンを出品した。


一方、

新芸術家協会のメンバーであり続けたヤウレンスキーは、

これら初めての展覧会には参加しなかったが、


しかし、1913年以後

へルヴァルト・ワルデンが主催した青騎士展には出品した。


『年鑑』の刊行を思いつき、

また新しい、型破りの展覧会の方法を始めたのが、

カンディンスキーであることは間違いない。


彼はのちに次のように書いているが、

これは冗談まじりの、

しかもそれ以上に彼の友人に対する

見事な外交辞令であったうっしっし

「『青騎士』という名前は・・・

 ジンデルスドルフの​(フランツ・マルクの)​別荘で

 コーヒー・タイムに思い浮かんだものです。


 私たちは共に青を愛し、

 マルクは馬を、

 私は騎士を愛していました。

 こうしておのずから

 この名前が生まれました。


 そのせいかマリア・マルクのいれる

 素晴らしいコーヒーの味は、

 なお良くなったのです。」


カンディンスキーが・・・

第一回展のカタログ序文に書いているように、

主催者たちの狙いは、

ひとつの特定の様式の宣伝ではなく、

むしろ

「様々な形式により、

画家がその内容的な願望を

明らかにする様々な方法を示す」ことであった。


カンディンスキー自身やドローネーの抽象画から、

税関史ルソーのナイーヴな具象画に至る

こうした可能性の幅の広さは、

彼らの選択の結果であった。


​第一回「青騎士展」に参加したメンバーは、

次の通りである下向き矢印

アルベルト・ブロッホ(Albert Bloch)1882年8月2日〜1961年12月9日

ダヴィドおよびラウディミール・ブルリック

ハインリッヒ・カンペンドンク(Heinrich Campendonk)1889年11月3日〜1957年5月9日

ロベルト・ドローネー(Robert Delaunay)1885年4月12日〜1941年10月25日

エリザベート・エプスタイン

オイゲン・フォン・カーラー(Eugen von Kahler)1882年1月6日〜1911年12月13日

カンディンスキー(Vassily Kandinsky)1886年12月4日〜1944年12月13日

アウグスト・マッケ(August Macke)1887年1月3日〜1914年9月26日

フランツ・マルク(Franz Mark)1880年2月8日〜1916年3月4日

ガブリエレ・ミュンター(Gabriele Munter)1877年2月19日〜1962年2月19日

ジャン・ブロエ・ニースレ(Jean Bloe Niestle)1884年8月16日〜1942年2月9日

アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schonberg)1874年9月13日〜1951年7月13日

である。

1911年12月18日から3週間だけ、43点の油彩画が展示された。


白黒の作品にのみ限られた

​​第二回展では、さらに多彩な人物と様式が見られた。

第一回展に参加を求められた画家の他、

​第二回「青騎士展」に参加したメンバーは下向き矢印

ハンス・アルプ(Hans Arp)1886年9月16日〜1966年6月7日

ジョルジュ・ブラック(Georges Braqe)1882年5月13日〜1963年8月31日

アンドレ・ドラン(Andre Derain)1880年6月10日〜1954年9月8日

マリア・フランツ=マルク(フランツ・マルクの妻)1876年6月12日〜1955年1月25日

ロジェ・ド・ラ・フレネー(Roger de La Fresnaye)1885年7月11日〜1925年11月27日

エルンスト・ルードヴィッヒ・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner)1880年5月6日〜1938年6月15日

パウル・クレー(Paul Klee)1879年12月18日〜1940年6月29日

アルフレート・クビーン(Alfred Kubin)1877年4月10日〜1959年8月20日

ミハイル・ラリョーノフ(Michail Larionow)1881年6月3日〜1964年5月10日

ロベール・ロティロン(Robert Lotiron)1886年10月29日〜1966年4月18日

オスカー・リュティ

マレーヴィッチ(カジミール・セヴェリーノヴィチ・マレーヴィチ)1879年2月23日〜1935年5月15日

ヴィルヘルム・モルグナー(Wilehelm Morgner)1891年1月27日〜1917年8月16日

モーリッツ・メルツァー

オットー・ミュラー(Otto Mueller)1874年10月16日〜1930年9月24日

エミール・ノルデ(Emil Nolde)1867年8月7日〜1956年4月15日

マックス・ペヒュシュタイン( Hermann Max Pechstein)1881年12月31日〜1955年6月29日

パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)1881年10月25日〜1973年4月8日

ゲオルク・タペールト

バウル・ヴェラ

モーリス・ド・ヴラマンク(Maurice de Vlaminch)1876年4月4日〜1958年10月11日

などが出品した。

しかしながら、短時日に集められ、

ふたつの展覧会で展示された絵画、デッサン、版画、

これら限られた数の作品をもってしては、

青騎士のもつ本来の内容を伝えることはとてもできなかった。


これに対し『年鑑』の方は

そこに収録された論文と図版により、

彼らの狙いを十分明らかにしていた。


ピカソとブラックは・・・

キュビスムの創成期にあっては、

もっぱら油彩画のみを手がけ、


また「橋」派の画家たちは・・・

自作に注解をつけることは、

高踏的すぎるとして、これを嫌った。


イタリアの未来主義者は・・・

激高した調子で既成価値を攻撃し、

未来の芸術のためのスペースを得るため、

ルーヴル美術館を焼き落すことを要求した。


一方、青騎士とその友人たちは・・・

極めて教養豊かな知識人であり、

科学技術の急速な進歩にも

十分ついてゆけるだけのエリート集団であった。


彼らは自然科学の領域における

大発見についても知っており、

また哲学、神学、宗教における変化をも十分理解していた。


とりわけカンディンスキーは、

神智学、心霊学、人智学等、精神的なものを

あらわにするための新しい、

あるいは一般的な方法に対して敏感に反応した。

ただし彼はそれらのどれにも転向することはなかった。


しかしながら、フランツ・マルクの

「彼らは未来の精神的宗教の祭壇に供えるための

 現代の象徴を創造しようと欲した」

という言葉は決して空念仏ではなかった。

カンディンスキーも全く同じ考えをもっていたのである。

(参考文献:Kandinsky TEXT BY HANS K.ROETHEL
   IN COLLABORATION WITH JEAN K.BENJAMINより)

(写真撮影:ほしのきらり)


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最終更新日  2022.01.26 00:10:09
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