7499153 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

「きらりの旅日記」

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

カレンダー

プロフィール

ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2022.01.29
XML
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​カンディンスキーの生涯とは・・・?人となりを最後にまとめて答えていただきましょうスマイル

​Vassily Kandinsky​
​Various Actions ​​​​​​(August-september)1941

カンヴァス 混合メディア 89.0cmx116.ocm

​​『さまざまな動き』​​​『様々なアクション』​​1941年

ニューヨーク「ソロモン・R・グッゲンハイム美術館」所蔵。

Vassily Kandinsky
ワシリー・カンディンスキー
​​
1866年12月4日〜1944年12月13日(78歳没)

ロシア出身の画家・理論家・美術評論家。

抽象絵画の創始者である。

ロシア・ドイツ・フランスで活躍した。​​


カンディンスキーの生涯にわたる最大の目標が・・・


「芸術における精神的なもの」の実現にあったとすれば、

晩年のパリ時代の、

彼の新しい様式の意味を明らかにする必要があるグッド


​​1934年(68歳)​​にフランスに移り住んだ

カンディンスキーにとって、

第一次大戦前の宗教的衝撃、

あるいは彼の様式に

根本的変化をもたらすに十分であった1922年〜1933年、

幾何学的な原理が

彼の作品に及ぼした影響に比肩するような

霊感源はあったのだろうか?


これに対しては・・・

たったひとつの解釈しかないようである。


つまり彼は自然への回帰を試みたのである。

といっても無論それはかつて

彼が初期の風景の中で再現したような自然ではなく、

いわゆる

「構成的(能産的)自然」natura naturansである。


彼は最も下等な生物における

顕微鏡的な有機的構造を、

あらゆる種類のアメーバや微生物を

ある種の宇宙的なドラマをうたい上げるために

その画面を取り入れた。


たとえば黙示録の四人の騎士とは違って、

これから微生物界からの借り物は、

何か形而上的なものを表すのでもなく、

また三角形、円、長方形のように

それ自体で自立しうるものでもない。


むしろそれらはマリオネットのように、

大規模で崇高な神秘劇を演じているようであり、

あるいはまたユーモアと皮肉にみちた

楽しいゲームにふけっているようでもある。


黙示録の第三の啓示にかかわる

一切の宗教的思想からは遠く離れ、

あるいはまた数学的な精神から生まれた

芸術からも遠く離れたところに、

魔術師カンディンスキーは、

「名人ルーディ」のように、

その晩年の作品に彼独自の「原初の言葉」を、

「オルフィッシュ」(Orphisch)なものを創造したのである。


これまでは・・・

カンディンスキーの芸術家としての功績のいく分かを見、

また彼の作品の複合的な性格についてもふれてきたので、


ここで多少なりとも、

彼の人間性について語るのも必要なことであろう。


ただし芸術家の人と作品は、

本来切り離せないものであり、

その一方だけを解明することは容易なことではない。


芸術家としても、

人間としても、

彼の性格の大きな特徴は・・・

その秘密主義的な点にある。


初期の頃は、その私的な書簡の中で、

またのちには、刊行された彼の著作の中で、

彼が生来的に自分の感情を、

したがってまた自分の超自然的あるいは

形而上的なメッセージの

本質をも隠す傾向のあることに注意を促している。


そして彼の芸術をいわば視覚化された

「リチェルカーレ」(ricercare)とするならば、

彼の人となりは・・・

容易には説明のつきにくい謎としなければならない。


​1902年に彼が着ていたものを見ると・・・

カンディンスキーは、

ボヘミアンというよりは、

学者とみられたがっていたという

クレーの観察の正しさがわかる。


​​ミュンヘン時代の彼は・・・​

こうした服装を変えなかったが、

彼の親友たちは、

こうした外観にだまされることはなかった。


1916年、ストックホルムでとった写真では、

彼はロシアの大公のように見える。


バウハウス時代の彼の同僚や弟子たちだったら、

彼のいで立ちや振る舞いは、

教授というよりは、

外交官のようであったことを思い出すであろう。


パリでの彼は・・・

ピカソやブラックとは違い紳士然とした

学者のようであった。


ガブリエーレ ・ミュンターは・・・

その晩年に

「カンディンスキーは貴公子のようであった」

と述べている。


天与の才、歴史的条件、個人的な決断、

それに運命などがひとつになって、

カンディンスキーという大芸術家が生まれた。


彼は生まれはロシアであったが、

その教育や精神的親近性、

それに彼自身の選択によって

実現的にはドイツ人となった。


しかし政治的状況のためフランス人として死んだ。


その生涯と作品においてカンディンスキーは、

ゲーテの言う「世界市民」に、

単なる世界の市民ではなく

真のコスモポリタンであると証明したのである。


(参考文献:Kandinsky TEXT BY HANS K.ROETHEL
   IN COLLABORATION WITH JEAN K.BENJAMINより)

(写真撮影:ほしのきらり)



​​カンディンスキーにグッドぽち右矢印にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​


​​​​​​​​​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022.01.29 00:10:09
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.