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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

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2022.02.07
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ジョアン・ミロは、ガリ美術学校に入学した後、聖ルカ文化サークルのデッサン教室で学び、1918年にバルセロナで初めての個展が開かれるまでを学んでみましょうスマイル

​Joan Miró ​


​​Joan Miró 
ジョアン・ミロ

1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)

​​Joan Miró i Ferrà​ジョアン・ミロー・イ・ファラー)​​

スペイン・カタルーニア地方出身の

画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。

ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)

パリでシュルレアリスム運動に参加し

20世紀美術に独自の地位を築いた。


1911年(18歳)​うつ病と腸チフスにかかり、

モンテロッチで、療養生活を始める。

1912年(19歳)​バルセロナのガリ美術学校に入学。

病気も完全に回復し、

画家として身を立てていこうと心に誓い

モンロチから戻ったミロは、

​フランセスク・ガリの主宰する美術学校に入学した。​


ここは私立の画塾で、

ラ・ロンハ美術学校に比べ、

もっと自由な姿勢があった。

教室は校舎内に留まらず、

生徒たちが自由に外に出て、

自然のなかから自然の要素を題材に

絵が描けるようになっていた。


そして、また

ここではしょっちゅう詩の朗読とか盛んに繰り返された。

ミロがカタロニアの詩人たちと接触するのは

この時代が初めてであり、

以来ずっと彼らの詩に親しむことになる。


ガリが、

新しく入ったこの画学生に最初に試みたことは、

色を使わずオブジェ(たとえば水滴や水差し、じゃがいも・・・)

だけを題材に静物画を描かせることだった。


仕上がりを見て教師は呆気にとられた。

ミロは与えられたオブジェを、

ガリの言葉をそのまま使えば、

“壮麗な夕日”に描き表わしていたのだ。

ともあれ、

ガリの言葉は、少なくとも

ミロの色彩豊かな構成から受けた印象だったと言える。


ガリはすぐにも

ミロのなかの生まれついた色彩感覚を見抜いたが、

一方で、フォルム描写の無器容さを見てとった。


これを訓練するにあたり、

まず彼はミロにハンカチで目隠しさせ、

そのままの状態でオブジェを指で触れさせたり、

隣の生徒の頭に手をやって輪郭を捉えさせた後、

オブジェを見ないで感じたままを描き表すよう伝えた。


このような触覚によるガリの教授方法は、

ミロの新しい感覚を磨き、

この先もずっとミロの制作画において

非常に重要なものとなった。


ミロは画家になりたての頃、

ある友人と親交を深めるが、

彼と初めて出会うのは・・・

ガリ美術学校においてだった。

この親友は、E・C・リカルトで、

何年か後、二人は

サン・ペドロ街に共同でアトリエを借りる。


1915年(22歳)​ガリ美術学校で学んだ最後の年から

1918年(25歳)​にかけては、

聖ルカ文化サークルのデッサン教室に通い

生活描写の訓練を積んだ。


この間に描かれたスケッチブックは、

当時のミロの日常生活や興味を知る大きな手がかりとなる。

たとえば、

典型的な裸婦のデッサンはなく、

代わりに踊り子や道化師、

あるいは、

ミュージックホールの人々がスケッチされている。


これは明らかに、

ミロが自分なりのスタイルを完成させたいと

願っていたことを意味している。


そして同時に、

より自由で自信にあふれる線描は、

こうしたエンターティーメントの世界の人々を

スケッチしたもののなかに見られる。


聖ルカ文化サークルでは・・・

生涯の親友となるジョアン・プラッツや、

のちに長年にわたり共同作業をする

陶芸家:ロレンス・アルディガス、

そしてのちに、

「農園の前のミロ」を著わす J・F・ラフィルスらと知り合う。


ここでは、

これから画家になろうとする人ばかりか、

たとえば著名な

建築家:アントニー・ガウディー のような、
(1852年6月25日〜1926年6月10日)

すでに名声を確立した芸術家までも学んでいた。

ガウディー はその頃、

人生の終わりにさしかかってはいたが、

このデッサン教室の勤勉な学生であった。


1914年(21歳)​ミロは、

ガリ美術学校在学中に「農夫」を描いている。

この題材は、何度も描かれた。

土に求める画家のルーツと

モンロチでの長い滞在で得た影響が、

このようにかなり早い時期から

作品中に表れていると言えよう。


人物のフォルムは・・・

たっぷりした色と非常に厚ぼったい

フォビスムを思わせるタッチで描かれている。

フォルムのゆがみや非現実的な色彩、

そして厚ぼったいタッチに象徴されるフォビスムの影響は、

実にミロの早い時期の作品のほとんどに見てとることができる。


「リフォーム」と題するバルセロナで描かれた作品以外に、

1916年(23歳)とその翌年には、

モンロチ、カンブリス、シウラナ、プラデスなどで、

一連の風絵画が描かれるが、

フォビスムの特徴はどの作品にも現れている。


ミロ自身、

1918年(25歳)までの自分の作品は

いずれもフォビスムであると説明している。

しかし、この場合、

ミロの意味するフォビスムと、

フランスのフォビストたちが言うそれとは

同一でないことを心に記す必要がある。


確かに、

コントラストを成すように単色を並置し、

色そのものに現実とは全く違う

独自の表現価値を持たせるという点では両者とも同じである。

だが、

筆の運びにおいて両者は異なり、

ミロのタッチは他方に比べ、

やや線が細く、

それほど自在ではない。


1916年(23歳)から翌年にかけて

描かれた風景画のなかには、

フォビスムの影響を受けていない作品もある。

「プラデスの街路」「シウラナの村」などは、

それぞれゴッホとセザンヌの作品を思い出される。


ミロがダルマウに作品を見せるのは、

1916年(23歳)の時である。

ダルマウはのちに

バルセロナにおけるミロの初の個展を企画する画商で、

彼の画廊は時代の最先端を行く動向を知るための

一種の広報機関のようだった。


第一次世界大戦によって、

バルセロナには多くの外国の芸術家たちが

天地を求めてやって来ており、

その結果、

街の文化や芸術面の動きはかなり活発化していた。


若いカタロニアの芸術家たちは・・・

当然のことながら、

ピレネー山脈の向こう側で生まれる作品が

どんなものかをしきりに知りたがっていた。


ダルマウ画廊には・・・

さまざまな芸術愛好家たちが集い、

たとえば、

フランシス・ピカビアとの会話に長い時間をさいたりした。

ピカビアは、マルセル・デュシャンと並び

アメリカにおけるダダ・グループを代表する運動家である。


このグループの主な狙いは・・・

1914年の戦争勃発を許した

偽善的な社会をあざけることだった。


ブルジョワとアカデミックな芸術に対する攻撃は、

最も多様な形で現れ、

その巧妙さと想像力は注目に値した。


ピカビアは、

バルセロナで評論誌『391』を発行していたが、

この地にもいろんな前衛誌が定期的に入っていた。


『レ・ソワレ・ド・パリ』

『ノール-シュド』

『ランスタン』などはその例で、


『ノール-シュド』は・・・

ミロの一枚の油彩画のなかに描かれているし、


バルセロナとパリで同時発行の『ランスタン』は・・・

1919年作の最初のポスターに見ることができる。


またこの頃は、

当時注目を集めていたフランス詩人たちの作品が、

J・V・フォアやジョセフ・マリア・ジュノイらによって、

カタロニア語に翻訳された。

・・・ちなみにジュノイは、

ミロの最初の個展のカタログに紹介記事を書いている。


この頃のミロは、

ある意味で、

事の成り行きを静観していたと言っていいだろう。


彼自身認めているように、

ダダの影響を受けるのは・・・二・三年後、

パリに住むようになってからである。


また、当時サン・ペドロ街51番地に

E・C・リカルトと共有していたアトリエで、

12点ばかりの静物画と、

9点の肖像画を描いているが、

それらの線描は、

いまだにフォビスムに添って表されている。


これらの静物画にはまた、

ほとんどにキュビスムと、

とりわけセザンヌの影響も現れている。


「ナイフのある静物」は・・・

セザンヌとキュビスムとフォビスムが独特の手法によって

何時に表された作品と言える。


「青い瓶」「バラ」では・・・

自由な色使いに比べ、構成とオブジェを整然と、

しかもそれぞれの個性を失わずに表現しょうと

努力した形跡がはっきり見られる。


「ノール-シュド」には・・・

ミロが望んでいた色彩と

オブジェのバランスの良さを見ることができる。

テーブルクロスの色合いは、

構成上の軽やかさを考え、

円状の流れにアレンジされているようだが、

オブジェはそれぞれの形を保ち、

全体の調和を図ろうとしている。


ミロは、頑固とも言えるほど、

ただひたすら制作に打ちこんだ。

1917年から翌年にかけては、

9点の肖像画を描いている。


これらの肖像画を描くにあたっては、

学生時代同様、

またしても人物描写という難題にぶちあたった。

ミロの人物描写はいささか荒っぽい。

たとえば、

「E・C・リカルトの肖像」では、

黄、青、ピンク、緑、紫といった

強烈な色彩がジャケットの縦縞で強調され、

背景の黄色や、

人物の後ろの壁に貼ってあるコラージュのような

浮世絵と鮮やかな対照をなしている。


肖像画に登場する手はいずれもぶかっこうで、

ねじれて、

ほとんど関節炎でも患っているようだ。


「V・ヌビオラの肖像」は、

その好例で、この苦痛を感じさせる手が

全体に異常な生活とか

暴力といった扇情的な感じを与えている。

テーブルは、

キュビスムの技法によってゆがんでいるが、

このテーブルに長いこともたれていたかに見えるモデルが、

画面構成にある独自のリズムをもたらしていると言えよう。


「自画像」・・・

1917年、1919年、1937年、1960年にそれぞれ描かれた

4点の自画像のうちの最初の作品・・・のなかの

聖職者のような姿勢は、

少年の頃に強い印象を受けた

ロマネスク絵画から想起されたように思われる。

構成的には主題以外には何もなく、

画家の姿だけが描かれている。


9点の肖像画は、前述の3点の他、

「マリア(シウラナの農婦)」

「J・F・ラフォルス」

「ヘリベルト・カザニィ」

「ファニータ・オブラドール」

「ラモン・サニエール」らの肖像と、

「立っている裸婦」である。


1918年2月16日から3月3日まで、​

バルセロナ、ポルタフェリーサ街のダルマウ画廊で、

ミロの最初の個展が開かれ、

1916年からそれまでの作品のほとんどがこの個展で発表された。

(参考文献:美術出版社/Joan​Miró​​ジョアン・ミロより)
(写真撮影:ほしのきらり)


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最終更新日  2022.02.07 00:10:08
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