|
カテゴリ:美術館・博物館
ラファエロはフィレンツェで、レオナルドとミケランジェロの作品に触れて何を学んだのでしょうか
当時の絵画作品は・・・ まずもって、 人物の表現が中心なテーマであったので、 人間をどのように表すかは、 大きな課題であった。 ラファエロ・サンティ Raffaello Santi 1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没) イタリアのウルビーノ公国に生まれる。 盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。 レオナルド・ダ・ヴィンチと、 ミケランジェロとともに 盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。 八頭身の長身でイケメン、 謙虚で礼儀正しく、 誰にも好かれた人柄であった。 【代表作】 『アテネの学堂』 『システィーナの聖母』 ラファエロは・・・ フィレンツェで、 レオナルド・ダ・ヴィンチと、 ミケランジェロの先進的作品に接し、 人物をどのように構成し、 空間内に配置するか、 という点で改良を重ねる。 さらに、 色彩や陰影表現など、 あらゆる要素を学び、 作風を徐々に変化させていく。 ラファエロが、 フィレンツェにやってきた1504年は、 ミケランジェロの 『ダヴィデ』が完成した年である。 『ダヴィデ』は、4月に完成し、 6月に政庁舎である シニョリーア宮殿(現:ヴェッキオ宮殿)の 正面玄関に設置され、 フォレンツェ共和国の新たなシンボルとなった。 ラファエロは、 その堂々とした姿を背後からスケッチし、 人体のプロポーション、 骨格や筋肉の表現にアプローチを試みている。 当時はさらに、 シニョリーア宮殿の内部にある 大評議会広間で、 レオナルド・ダ・ヴィンチと ミケランジェロの競作として 壁画を制作させる計画が進められ、 大きな話題を呼んでいた。 1503年より、 共和国政府主導のもと進められたいた この計画の画題は、 中世末にフィレンツェが行った戦争の一場面である。 1508年春、 レオナルドは 『アンギアーリの戦い』 (1440年のフィレンツェ対ミラノ戦)を、 共和国政府から依頼され、 1504年には、 原寸大下絵を完成、 壁画制作に着手した。 一方、 ミケランジェロは 1505年から『カッシナの戦い』 (1364年のフィレンツェ対ピサ戦)に着手したと見られ 1505年には原寸大下絵を仕上げた段階となっていた。 ミケランジェロの下絵は・・・ 現在のメディチ=リッカルディ宮殿に、 レオナルドの下絵は・・・ サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院、 教皇の間にて公開され、 当時の芸術家たちのあいだで 大きな反響を呼ぶ ラファエロもまた、 二人の競作の評判を耳にして、 フィレンツェに引き付けられた一人だったのである。 ミケランジェロは、 兵士たちが休息し水浴びをしていた最中、 敵の襲来を告げる合図があり、 男性裸体像が入り乱れつつ 戦闘の準備を行う様子を構想した。 一方、 レオナルドは、 軍旗を奪い合い衝突する 騎馬像を中心とした場面を描いた。 残念ながら、 レオナルドとミケランジェロは、 ともに作品を完成させないまま フィレンツェを離れ、 計画は頓挫した。 二人の独創的な構想を伝える 原寸大下絵も失われてしまったため、 16世紀のコピーから、 構図や人物のポーズが推測されるのみである。 とはいえ、 二人の競作は強烈なインパクトをもたらし、 多くの同時代人によって さまざまに証言されている。 年代はやや下がるが、 フィレンツェ出身の彫金家: ペンヴェヌート・チェッリー二 (1500年〜71年)は自伝で、 あらゆる芸術家たちが 熱心に彼らの下絵を学んだ事実を 「世界の学堂」と評している。 この出来事に示されるように、 フィレンツェは、 準備のための下絵も公開されるなど、 芸術家の学ぶ機会が広く開かれていた都市であった。 『ダヴィデ』のような 公共の場に置かれた完成作品のみならず、 未完成の作品もまた、 周囲からの評判の対象となっていた。 また、 関係の良好な芸術家同士は、 互いのアトリエを訪問しあい、 スケッチや制作途中の作品を見る機会にも恵まれていた。 こうした フィレンツェの芸術家たちと交流するなか、 ラファエロは、 レオナルド・ダ・ヴィンチ、 そしてミケランジェロから、 多くの示唆を受けているのである。 (参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より) (写真撮影:ほしのきらり。) ラファエロにぽち お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.08.23 00:10:10
コメント(0) | コメントを書く
[美術館・博物館] カテゴリの最新記事
|