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テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法
《政教分離の思想を支えたのは,すでにふれたように,プロテスタント,なかでも,インデペンデント派の宗教観であった。ところが,その思想は,カトリック勢力の前に,すぐには根づかなかった。 カトリック教会は,〈国家は自分たちの奉仕団である〉と宣言し,他方,国家は〈われこそ宗教的精神の支配者である〉と宣言していた。実は,両者のうち,実際に長期にわたって支配者となったのは,カトリック教会であった。なぜなら教会は,人びとを救済する責務を全うするために,それにとって危険な行為を監視する権限をもっていたからである》(阪本昌成『憲法2 基本権クラシック』(有信堂)、p. 128) 実際、西洋にはこういった教会と国家の権力争いがあった。だからこそ教会と国家は分離しなければならないという考え方が生まれたわけである。 《この沿革からわかるように,政教分離のねらいは,「国家による宗教団体の支配」(governmental involvement)を忌避することもさることながら,「宗教団体による国家の支配」(religious intrusion)を警戒しなければならないことを示唆している。政教分離原則は,なによりも,国家の支援する特定の宗教団体が国家統治を支配したり,これへ干渉したりすること,すなわち,神権政治を防止する工夫だった》(同) 英語を汲んで訳し直せば、<政教分離>の狙いは、「国家による宗教団体への関与」と「宗教団体による国家への侵入」を防ぐことにあった。が、憲法に「教会と国家の分離」を書き込むことで「教会と国家の権力集中」を防ごうとする、あるいは、防げると考えるのは少し「幼稚」過ぎやしないか。今時(こんじ)ロシアのウクライナ侵攻を見ても分かるように、法律など建前に過ぎず、この「防御柵」は越えようと思えば簡単に越えられる。 非民主的「教会権力」は、デモクラシーの時代に合わない。だからこそ<教会>が政治に介入しないように「教会と国家の分離」が謳(うた)われているのである。が、「教会権力」ある限り、いつ何時(なんどき)教会と国家の権力集中が起こらないとも限らない。 だとすれば、目指すべきは教会と国家の「権力の分散」ではなく「聖俗の棲み分け」ではないか。超越的存在に関わる宗教が俗世において力を持ち過ぎているのが根本的な問題なのであって、宗教には本来あるべき聖域にお戻りいただこうということである。 が、ここで気になるのは、宗教団体が政党を作って政治に関わることは可か不可かということである。実際、欧米でも「宗教政党」は存在するし、日本にも創価学会を母体とする公明党がある。<政教分離>をうるさく言うのであれば、「宗教政党」は絶対的矛盾である。「宗教政党」を認めるのであれば、<政教分離>をうるさく言うことは控えるべきだ。 宗教法人は非課税という税制は引っ掛かるが、日本において「宗教と国家の権力集中」が起こるとは考えにくい。だとすれば、<政教分離>規定など日本には必要ない。<政教分離>規定がなくなれば、首相の靖国参拝が問題になることもない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.04.16 21:00:06
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