1603989 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

照千一隅(保守の精神)

照千一隅(保守の精神)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Free Space

「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

Profile

平成ソクラテス

平成ソクラテス

Comments

Calendar

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

まだ登録されていません
2023.01.11
XML
カテゴリ:歴史

C・V・ウエッジウッドは言う。

「私にとっては、個人としての人間の行動の方が…集団あるいは階級としての人間の行動よりも興味がある。どちらを基礎にしても歴史は書けるものであるし、どちらが余計に人々を誤解に導くというものでもない。……本書は……この人々がいかに感じていたか、また、彼ら自身の気持から見て、なぜこのように行動したのか、それを理解しようとする試みである。」(E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)清水幾太郎訳、pp. 63-34

さて、ウェジウッド女史の声明においては、2つの命題が結びついております。第1の命題は、個人としての人間の行動は集団や階級のメンバーとしての彼らの行動とは違うものであり、歴史家は正当の権利をもってその一方を選んで論ずることが出来るということです。第2の命題は、個人としての人間の行動の研究は彼らの行為の意識的動機の研究であるということです。(同、p. 65

 が、社会人としての行動ではなく、個人の行動を描いたとしても、それは「個人史」のようなものにしかならないだろう。その個人が偉大な人物であれば、それは「偉人伝」となろうが、要は、「歴史」というよりも「伝記」と称するべきものではないかと思われる。

Everyone knows today that human beings do not always, or perhaps even habitually, act from motives of which they are fully conscious or which they are willing to avow; and to exclude insight into unconscious or unavowed motives is surely a way of going about one's work with one eye wilfully shut. This is, however, what, according to some people, historians ought to do. The point is this.

So long as you are content to say that the badness of King John consisted in his greed or stupidity or ambition to play the tyrant, you are speaking in terms of individual qualities which are comprehensible even at the level of nursery history. But, once you begin to say that King John was the unconscious tool of vested interests opposed to the rise to power of the feudal barons, you not only introduce a more complicated and sophisticated view of King John's badness, but you appear to suggest that historical events are determined not by the conscious actions of individuals, but by some extraneous and all powerful forces guiding their unconscious will. This is, of course, nonsense.

(人間は常に、あるいは恐らく習慣的にでさえ、完全に意識した、乃至(ないし)は、明言することを厭(いと)わない動機で行動するわけではないことを、誰もが今日知っていますし、無意識あるいは明言しない動機への洞察を排除することは、故意に片目を瞑(つぶ)って仕事に取り掛かる方法であることは確かです。しかしながら、ある人々に言わせれば、歴史家がすべきなのはこれなのです。要は、こういうことです。

ジョン王の悪さは、暴君を演じようとする貪欲さ、愚かさ、野心にあると言って満足している限り、子供向けの歴史の水準でさえ理解可能な個人の資質に関して語っているに過ぎません。しかし、ジョン王は封建貴族の権力拡大に反対する既得権者の無意識の道具であったと言い始めると、ジョン王の悪さについてより複雑で高度な見方を導入するだけでなく、歴史上の出来事は個人の意識的行動によってではなく、その無意識の意志を導く何か外部からの強力な力によって決定されると示唆するように見えます。言うまでもなく、これはばかげています)― cf. 清水訳、pp. 67f

 どこまで歴史家が個人の内面に踏み込んでいいのかという問題である。個人の外面だけで歴史を綴(つづ)れば、無味乾燥な、面白みを欠くものとなってしまうだろう。他方、個人の内面を類推し、安易にこれを言語化してしまっては、歴史があらぬ方向に独り歩きしてしまいかねない虞(おそれ)が生じるということである。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2023.01.11 21:00:09
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.