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テーマ:歴史とは何か(135)
カテゴリ:歴史
ヘーゲルの「理性の奸計(かんけい)」(List der Vernunft)というのもある。※奸計:悪巧(わるだく)み 《世界史が…人間の自由を実現してゆくということは、ヘーゲルによれば、絶対者ないし神の摂理なのであり、必然的に定められていることなのである》(岩崎武夫「ヘーゲルの生涯と思想」:『世界の名著35』(中央公論社)、p. 32) 所謂(いわゆる)「決定論」である。 《それは歴史を支配する法則であって、この法則に人間は決して抵抗することはできない。人間はもとより必ずしもこのような歴史の法則を自覚しているものではない。むしろ個々の人間はみずからの関心と情熱とによって行為の目的を定め、その目的を実現しようと努力してゆくのであろう。しかしこの個々人の行為のうち、その目的が世界史の法則的進展に適合しないものは成功せず、世界史のうちで重要な意義を持ちえないのである。ただ世界史の進むべき方向に適合した目的を実現する人々のみが世界史的意義を持つのである。 このことは言いかえれば、絶対者が自己の目的を世界史のうちに実現してゆくために、個々人の働きを利用するとも言うことができるであろう。絶対者といえども個々の人間の働きなくしては、その目的を歴史のうちに実現してゆくことはできない。人間の働きを通じてのみ、絶対者は自己の本質を歴史のうちに実現してゆくのである。 しかし、このことは決して歴史の動向が個々人の働きによって決定されてゆくということを意味するのではない。歴史の歩みは、はじめからきまっているのであり、絶対者はいわば個々人をして自由に行為せしめながら、そのあるものを失敗させ、あるものを成功させることによって、自己の目的を実現してゆくのである。ヘーゲルはこのことを、その「歴史哲学」において、「理性の詭計(きけい)」と称している》(同、pp. 32f) ヘーゲル自身が<歴史の歩みは、はじめからきまっている>と思うのは勝手である。が、何の証拠も示さずに、それが恰も真理であるかのように言うのは迷惑でしかない。 《このようなヘーゲルの考え方がどこまで正しいかということについては、いろいろの論議がありうるであろう(とくに世界史を神の摂理による目的論的過程として解したことに対しては、おそらく多くの異論が提出されるであろう。しかし、少なくともヘーゲルが非歴史的な啓蒙思想を越えて、歴史というものの持つ重みに目を注いだということは、大きな時代的意義を持っていると言えるのではないてあろうか。 18世紀が非歴史的な合理主義の時代であったのに対して、19世紀は歴史主義の時代であったと一般に言われることがある。哲学においては歴史哲学に対して大きな関心が注がれる。経済学や法学においても歴史学派というものが現われてくる。ヘーゲルの哲学は、こうした19世紀の歴史主義への途を開いたのであった。と》(同、p. 33) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.01.14 21:00:10
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