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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2023.01.17
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カテゴリ:歴史

1917年、ロッジはウッドロー・ウィルソンについて次のように書いております。「彼は参戦するつもりはない。しかし、事件に押し流されてしまうと思う。」「人間の意図による説明」や行為者みずからが語る動機の説明を基礎にして、つまり、行為者がなぜ「彼ら自身の気持からして、このような行為をしたのか」を基礎にして歴史を書くことが出来ると考えるのは、一切の事実を無視するものであります。(E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)清水幾太郎訳、p. 72)

 人間の行為が意図した部分と意図していなかった部分が綯(な)い交ぜになっていることは、言わずもがなのことであろう。

確かに、歴史上の事実は、諸個人に関する事実に相違ありませんけれども、孤立した個人の行為に関する事実でもなければ、諸個人がみずから行為の動機と称するもの――真実のものであれ、架空のものであれ――に関する事実でもありません。それは社会のうちにおける諸個人の相互作用に関する事実であり、また、諸個人の行為から、しばしば彼らみずからが意図していた結果とは食い違った、時には反対の結果さえ生み出すような社会的諸力に関する事実なのです。(同、pp. 72f

 誰かが社会に向けて何かを行えば、その反作用として社会は反応するだろう。この作用・反作用の複雑な力が社会に渦巻いている。したがって、個人は自分が何かを為(な)すだけではなく、何かを為すように社会から求められる。時代の流れ、そして社会の渦に巻き込まれ、たとえ何も為さなくとも、知らず識らずのうちに、何かに加勢し、加担してしまっている。

コリングウッド史観の最も重大な誤謬の1つは、行為の背後にある思想――これを究めるのが歴史家の使命なのですが――を行為する個人の思想と仮定したところにあるのです。これは誤った仮定であります。歴史家が研究を託されているのは、行為の背後に潜んでいるものですが、それと、行為する個人の意識的な思想や動機とは全く関係がないかも知れないのです。(同、p. 73

 過去の出来事がたくさん集められ、それが帰納的に煮詰められて「歴史」という物語を作るのではない。「歴史」を描くためには、歴史家には先ず「歴史観」と呼ばれる理論的偏見がなければならない。「歴史観」がなければ、無数の過去の出来事の中からどれを拾い上げてよいやら判断が付かない。言い換えれば、「歴史」は、自分の歴史観に沿う出来事を過去という大海から1つひとつ拾い上げることから始まるということである。だから、歴史家がどのような歴史観を持っているのかを知ることが大事なのである。






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Last updated  2023.01.17 21:00:09
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