1606249 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

照千一隅(保守の精神)

照千一隅(保守の精神)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Free Space

「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

Profile

平成ソクラテス

平成ソクラテス

Comments

Calendar

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

まだ登録されていません
2023.01.18
XML
カテゴリ:歴史

ここで、歴史における叛逆(はんぎゃく)者あるいは異端者の役割について少し申し上げなければなりません。社会に向って反抗する個人という通俗的な姿を描き出すのは、社会と個人との間に、偽りの対立を再び導き入れることになります。どんな社会にしろ、全く同質的ということはありません。すべての社会は社会的闘争の舞台であって、既存の権威に向って自分を対立させている個人も、この権威を支持する個人に劣らず、その社会の産物であり、反映であります。(E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)清水幾太郎訳、p. 73)

 「社会の産物」という言い方は、時間を「現在」に限定してしまった考え方である。が、人物の思想には、今在る社会だけでなく、過去の歴史が大きく関わっていることは言うまでもない。詰まり、反逆者や異端者は、独り「社会の産物」であるだけでなく、「歴史の産物」でもあるということだ。

トルストイのように、偉人とは「事件に名前をつけるラベル」に過ぎないなどと非難する必要もないと思います。もちろん、偉人崇拝に不書な意味があることもあります。ニーチェの超人は厭(いや)な人物です。

《おまえたちに超人を教えてやる。人間は克服されねばならぬ何かである。おまえたちは人間を克服するために、何をしたというのか?

 生きとし生けるものはすべて、自らを超える何かを創ってきた。おまえたちは、この大いなる上げ潮を引き潮にしてしまおうというのか、人間であることを克服するよりも、むしろ動物の昔に舞い戻ろうとするのか?》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』(鳥影社)小山修一訳)、p. 14

「神は死んだ」。が、我々は、これでキリスト教を超克したなどと喜んでいる場合ではない。神という「絶対者」が消滅したことで、我々は物事の価値基準を失ってしまった。何に価値があって、何に価値がないのか、それが分からない。「ニヒリズム」(虚無主義)の始まりである。そこに現れたのが「超人」なのである。

《人間にとって猿とは何か? 笑いの種、あるいは苦痛にみちた恥辱である。超人にとって人間とは、まさにそうしたもの、すなわち、笑いの種、あるいは苦痛にみちた恥辱であるに違いないのだ。

 おまえたちは虫から人間への道をたどってきた。けれどもおまえたちの生命の中には、今なお多くの虫が巣くっている。かつておまえたちは猿の群れだった。そして、今なお人間はいかなる猿よりも、多くの猿の影を生命の中にひきずっている。

 おまえたちの中の最も賢明な者といえども、草木と幽霊との葛藤であり、間の子であるにすぎない。だからといって、わたしがおまえたちに、それらしい幽霊になれ、おとなしい草木になれと命じるだろうか。

 いいか、わたしはおまえたちに超人を教えているのだ。

 超人とは大地の志(こころざし)である。おまえたちの意志は訴えなくてはならぬ。超人こそ大地の志であれ! と》(同、pp. 14f






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2023.01.18 21:00:10
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.