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テーマ:歴史とは何か(135)
カテゴリ:歴史
ヒトラーのケースや、ソ連における「個人崇拝」の恐ろしい結果は今更思い出すまでもありません。しかし、偉人の偉大さにケチをつけるのが私の本意ではありませんし、「偉人は殆んど例外なく悪人である」という主張に同意するつもりもありません。私が攻撃を加えたいと思うのは、偉人を歴史の外に置いて、突如、偉人がどこからともなく現われ、その偉大さの力で自分を歴史に押しつけるというような見方、「ピックリ箱よろしく、偉人が暗闇から奇蹟の如く立ち現われて、歴史の真実の連続性を中断してしまう」というような見方にほかなりません。今日でも、私は、次に掲げるヘーゲルの古典的な叙述は完壁なものだと考えております。 「ある時代の偉人というのは、彼の時代の意志を表現し、時代の意志をその時代に向って告げ、これを実行することの出来る人間である。彼の行為は彼の時代の精髄であり本質である。彼はその時代を実現するものである。」(E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)清水幾太郎訳、pp. 76f) これは、ヘーゲル最後の著『法の精神』からの引用である。 《世論のなかにはいっさいの虚偽と真実が含まれているが、そのなかの真実のものを見つけるのが偉人の仕事である。時代が意志しているものを、言い表わし、時代に告げ、そして成就する者、これが時代の偉人である。彼は時代の心髄にして本質であるところのものを行なって、時代を実現する。ここかしこで耳にするような世論の軽蔑すべきことを心得ていない者は、決して大事をなしとげることはないであろう》(ヘーゲル「法の哲学」§318:『世界の名著35』(中央公論社)藤野渉・赤澤正敏訳、p. 576)
また、自分の時代より進み過ぎていたために、ようやく後代に至ってその偉大さが知られるようになった偉人たちのことも忘れてはなりません。私が大切だと考えますのは、偉人とは、歴史的過程の産物であると同時に生産者であるところの、また、世界の姿と人間の思想とを変える社会的諸力の代表者であると同時に創造者であるところの卓越した個人であると認めることであります。(カー、同、p. 77) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.01.20 09:56:07
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