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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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平成ソクラテス

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2023.02.05
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カテゴリ:歴史

The accusation forgets the great difference, that our tribunals (whether juridical or moral) are presently tribunals designed for living, active and dangerous men, while these other men have already appeared before the tribunal of their day, and cannot be condemned or absolved twice. They cannot be held responsible before any tribunal whatsoever, just because they are men of the past who belong to the peace of the past and as such can only be the subjects of history, and can suffer no other judgment than that which penetrate and understands the spirit of their work. -- Benedetto Croce, History as the story of liberty

((法律的なものであれ道徳的なものであれ)我々の法廷が、現在生きている、現役の危険人物のために作られた法廷であるのに対し、これら他の人物はすでに当時の裁判を受けており、二度有罪無罪を言い渡され得ないという大きな違いをこの非難は忘れている。彼らは、過去の平和に属する過去の人達であり、そのような人達は歴史の題材にしかなり得なく、彼らの仕事の精神を見抜き、理解する以外の判断を蒙(こうむ)り得ないので、如何なる法廷でも決して責任を問われ得ない)― ベネデット・クロース『自由の物語としての歴史』

 歴史家は、人物を評価することはあっても、裁判官として判決を言い渡すことは出来ない。裁判官の判決と歴史家の評価は別物である。

They are understood yet not automatically as the motto has it (tout comprendre c'est tout pardonner), pardoned, because they now stand beyond severity or indulgence, beyond censure or praise. Those who on the plea of narrating history bustle about as judges, condemning here and giving absolution there, because they think that this is the office of history, taking history's metaphorical tribunal in a material sense, are generally recognized as devoid of historical sense – Ibid.

(彼らは、理解はされるが、厳しさも甘えも、非難も賞賛も超越したところに今いるので、「すべてを理解することはすべてを赦(ゆる)こと」という標語にあるように、自動的に赦されることはない。歴史を語ることを口実に、裁判官として奔走し、ここで断罪し、そこで赦しを与える人々は、これが歴史の役目であると考え、歴史の比喩的法廷を具体的な意味で捉えているので、概して歴史感覚が欠如しているものと認識されている)― 同

 裁判における裁定は、謂わば「当代」のものである。詰まり、その時代における当座の評価に過ぎないということだ。一方、歴史の審判とは、もっと長い時間で評価されるべきものである。例えば、当事者としての利害関係が消えた時点で客観的な視点から再評価を行うということは十分あり得ることである。

 ヒトラーやスターリン――お望みなら、マッカーシー上院議員――に道徳的判断を下すのがわれわれの仕事ではないという主張に異議を唱える方がいらっしゃるかも知れませんが、それは、彼らがわれわれのうちの多くのものの同時代者であるからであり、直接間接、彼らの行為の犠牲になった人々が何十万となく存命中であるからであり、更に、正にこのゆえに、われわれにとっては、歴史家として彼らに近づくことが困難であり、また、彼らの所業に大威張りで判断を下せるという、歴史家とはまた別の資格を自分に認めがちなものであるからであります。これこそ、現代史家が当惑することの1つ――いや、最も当惑すること――なのであります。それにしても、今日、カール大帝やナポレオンの罪を糾弾したら、誰かがどんな利益を受けるというのでしょうか。(E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)清水幾太郎訳、p. 112






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Last updated  2023.02.05 21:00:11
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