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テーマ:歴史とは何か(135)
カテゴリ:歴史
history is about the most cruel of all goddesses, and she leads her triumphal car over heaps of corpses, not only in war, but also in "peaceful" economic development. And we men and women are unfortunately so stupid that we never can pluck up courage to a real progress unless urged to it by sufferings that seem almost out of proportion. -- Letter of 24 February 1893 to Danielson in Karl Marx and Friedrich Engels (歴史は、すべての女神の中で最も残酷な女神の話であり、戦争だけでなく、「平和裡」の経済発展においても凱旋車を先導し、死体の山を乗り越える。そして、私たち男女は不幸にも非常に愚かなので、ほとんど不釣り合いに思われる苦しみによって促されない限り、真の進歩への勇気を奮い起こせないのである)― カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスのダニエルソンへの1893年2月24日の手紙 カーは、この一節は<気持ちが悪いくらい適切>(uncomfortably apt)だと言う。が、歴史を通じて凱旋車で死体の山を乗り越えるというような話ではない。それは、少なくとも、歴史の一局面の話である。が、そうだとしても私はこのような暗黒の歴史観には賛同しがたい。さあ、勇気を出して暗黒の歴史を改めようではないか! 革命を起こそう! とはならない。 歴史家は、神学者が受難の問題に対して答える以上に断定的な答を持ってはおりません。歴史家にしても、より小さい悪とより大きい善という考え方に拠ることになるのです。 しかし、歴史家は、科学者とは違って、その間題の性質上、右のような道徳的判断の問題に巻き込まれるに至ったからといって、それは、歴史が価値という超歴史的な標準に屈服することを意味するのでしょうか。私はそうとは思いません。 「善」や「悪」というような抽象的観念、これらを更に複雑微妙に発展させたものが歴史の領域を越えたところにあると仮定してみましょう。しかし、そうだとしても、これらの抽象的観念は、数学上および論理学上の方式が自然科学で果しているのと全く同じ役割を歴史的道徳の研究において果しているのです。これらの抽象的観念は思想に欠くことの出来ない範疇(はんちゅう)なのですが、ただ、それに特殊な内容が盛り込まれるまでは、意味もなければ、用いようもないのです。 別の比喩をお好みになるのでしたら、私たちが歴史や日常生活で用いる道徳上の掟(おきて)は、印刷の部分と書いた部分とがある銀行小切手のようなものと申しましょう。印刷の部分は、自由と平等、正義と民主主義というような抽象的な言葉で出来ております。これは大切な範疇です。けれども、私たちがどのくらいの自由を誰に与えようというのか、私たちが誰を平等な仲間と認めるのか、どの程度までなのか、それを私たちが他の部分に記入しないうちは、小切手は価値がないのです。(E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)清水幾太郎訳、pp. 118f) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.02.09 21:00:08
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