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遠恋しながら読書の日々。

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Aug 25, 2004
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On writing a diary

日記を書くことについて日記に書く私。
まず初めにある意味言い古された二つの点から始めたいと思ふ。

1.全ての日記はフィクションである。
2.日記を書くとき人はそれが自分ひとりのための日記だとしても、常に読者を想定して書く。

1.に関して云えば、フィクションというのは例えば私が日記に書いてある内容に反して、実は48歳のサラリーマン(男性)で家には妻子が待ってて平々凡々に暮らしているけれど、楽天サイト上でちょっと他人を演じることに快感を覚えている、というようなちんけなハナシではなく(一瞬マジ?って思わない?)。

要するに、どんなに「事実」に即して「時系列」にそってその日に起きたこと等厳密に書き付けているつもりでも、あなたがその日記を書き始めた途端にそれらの「事実」はあなたを通してフィクションになると、云う意味。
要するに物を書くときに完全に主観を排した客観的事実、「本当のこと」を書き付けることなど不可能であり、厳密な意味での、所謂「non-fiction」は存在しない。(だか極論を言うと何書いても同じ~。厳密にはそもそも「客観」「事実」というものが存在するかという別な問題もあるが)

2.に関して言えば、読んだとおり。いかに「秘密の日記」とかいって鍵をかけていたとしても日記を書くということは自分の中に常に読者を想定して書くということ(仮想読者ですね)。(これは誰かがその日記を盗み読むことを想定してって意味じゃないよ)。
従って楽天の成功というか最近のブログの成功もここにあるんだと思うわ。最終的には、物を書いて発表するというのは自己表現(自己顕示欲)の発露なわけだし、その自分が書いたものに手軽に読者を提供してくれるんだから。それにうみ疲れて適度にマイペースで続けるか、それに勢いづいて「情報発信型サイト」になるかは個人によるだろうが。

もし自分はこの二つに当てはまらない、自分は厳然たる事実をどんな読者も想定せずに自分のために書いてるんだ!、という人がいたら、あなたは超人的な人か、超人的な勘違いをしてるので、下記のアドレスまでメール...くれなくていいです。

Anyway,何でそんなことを考えたかというと自分の日記を読み返していたから。
いや、面白いな~。

楽天の場合は相互の日記のリンクなる制度があるゆえに、上記の「仮想読者」が必ずしも匿名の読者ではないところに面白みがある。
ましてや、ログ解析なんてものがご丁寧にあるので、誰が見に来てるかわかるようになっているわけで。

自分の日記を見るにつけ其の都度で無意識にしろ有意識にしろ書いている文章の対象がいるわけで、その明確な対象に向かってアピールしたい自分の面を自己プロデュースしてるようなものね。

それらは全て自分なワケで、ちょっと偉そうに理論的なことを言った後は、逆に乙女な面を強調してみたり。面白いですな。

下記は某場所で数年前、「私」論を戦わせたときの文。自己引用。

>他人と区別された我というのは、常に他人とのかかわりを通して自分を意識するところから生まれるからです(サルトル言うところの対自。ハイデガー的に現存在)。だからこそ人とモノとは同じ"存在"でも、モノは自我をもたない(そのままモノ。即自。自己の存在を意識しない=自我をもたない)のに対し人はものを見て自分はモノではないを認識することによって、自己を認識することができるのです。

ラカン派チックに「自分」を他人と言う鏡に映る影の反映に過ぎない(書くとなる一つの統合された主体としての私は存在せず)とするならば、ものを書くという行為は私にとって自分を見る鏡なのだなあと思う。

(途中)





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Last updated  Aug 27, 2004 02:13:11 AM
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