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カテゴリ:帝国
まだそういう季節ではないが、深夜窓を開けはなって直下の渓流の音を聴いていると、ふときこえない凩が聞こえてくるから不思議だ。ここは、夜は獣たちの世界だ。ひとの脳みそが浮かべる理屈などは吹き飛ぶ。われわれは連中と比べればはるかに幼い。なぜ喋る、なぜ考える、なぜ自然をありのままに受け容れようとしない。うーん、風がそんなことを告げている。
シケモクをふかす凩鳴りやまず 気がつくと灰皿は吸い殻でいっぱいだ。仕方がないから山のなかから長そうなのを選り分けて吸う。そのうちに辞書を破って手巻き煙草をつくりたい衝動に駆られたり。中毒か。中毒ではないつもりだが中毒でもいいともおもう。ここまで書いてテレビを付けるとBBCが、スコットランドではパブなどおおやけの場所ではいっさい煙草を吸ってはいけないということを2006年に法制化すると伝えてきた。別段他人に無理強いするものじゃあないし、そのつもりもないけれど、煙草を敵視する文化などというものはロクなものじゃないなとつよくおもう。 東京・秋葉原駅の電気街へむかう改札で待ち合わせをしていた。相方が30分ほど遅れるというので、雨も降っていたしガード下にあるデパートをのぞき電子部品など雑多な品々がならぶ高架下の路地をあるいた。五分前にもどってきてつい癖で煙草に火を付け、ぽわあと青い煙を吐きだした。と、つぎの瞬間であった。だあーっと黒い影がひとつわが青い煙の前に立った。もしもし、と声をかけてきた。電動バリカンで刈り上げた坊主頭に薄いニコンの色ガラスの眼鏡で、あいにくと紺系統のジャケットに白いシャツ。自分で言うのもナンだけれど120パーセントが初対面ならあちら関係のお方にみてしまうイデタチ外見。それがぽわあと御法度をどーどーとふかしていれば、まあ来ますよね、ちょっとこわいとしても、まじめな日本人まして東日本角丸ショーケン委員長様だったか関連でその方面では鍛え抜かれたかつての動労組合潰しだかの生き残りのはずれあたりで頑張っていたらしい秋葉原だ(←解読できない方は無視してください)。規則大好き人間の塊と言ってはナンであるが、まあ70パーセントほど規則に攻め上られた貧しくプアな頭に赤と金の飾りの帽子を載せた若いJR駅員複数名だった。すみません、あのうここ禁煙地区ですと、一番先に駆けつけた背の小さいのが約1.5メートル手前でたちどまって言った。 なるほど。これは数週前の東京でのオハナシだが、ここで迂回ノット一時停止ボタン。わたしはどーして煙草を吸うのか考えてみたい。われわれは、といってもいいが単数形で勝負してみよう。いまこうしてキーボードを打っていても傍らに紙巻き煙草のさきほど大急ぎで買ってきた10箱がある。そしてその中から抜き取った一本がいま左の手の平でころころと「吸われる」のを待っている。で、これはけっこうすごいことだと思うのである。なにがすごいか。この世界に、このように手の上で転がしながら自由にできるものがどれほどあるだろうか。人間ではこうはいかない、子猫だってけっこうきびしい(さきほどは小鉄に左指の爪のところをその鋭利な前足の爪で肉ごと掻かれてしまったばかりだ)。だが、いま左手にある白い棒状の物体は、その存在丸ごとを「あんたのためならよろこんで燃やしてあげる」とささやくのである! わたしはキーボードからライターに持ち替えた右手でしゅぱっといま、だから点火した。そうしておもいきり胸一杯に彼女を気道の奥深くまで吸い込んでやった、その存在丸ごとを煙にしながら。これはじつにすごいことだ。何が? 世界をその時わたしはわが体内に取り込みわがものとしつつあるからだ。煙草は私有化が難しいもののひとつだ。一本の煙草、それはいつでも「わたしの(煙草)」を拒否する存在だ。けして誰のものでもない一本の煙草。ところがいま、それをわたしは燃やしつつ「わたしのもの」としつつあるではないか。しかも数ミリづつ燃え進むごとに青酸カリほどの毒をももろともにである。それは日常という世界の中でほかに比べるものがあるなら生殖の行為くらいではないかとさえおもえるほどの、世界との交合である。 そのときも、わたしは薄暗いJR構内から小雨降る電気街の雑踏をながめながら眼前するその世界全体を、紫煙とともにわがものとするひとつの生理行為に励んでいたわけである。そこへいきなり現れた制服の若者某某某三名だ。無礼者!!と、むかしのわたしなら有無を言わさず斬り捨てたに違いない。しかしもちろんそのような野蛮はしなかった。喧嘩というものは渋谷にチーマーとか呼ぶ人種が出現したはるかな時代に、ひょんなことで連中8名を相手にしてぼろぼろにされていらい懲りた。そのときもだから、おだやかな四角い顔をその小男の駅員に向け、「ああ、すみません」と口から煙を吐きつつ言い置いて、さっと小雨降る構外まで歩いて出たのだった。ま、ここならわたしは濡れるが彼らの顔は立つでしょうと。ところが、そうは電気街の問屋が卸してくれなかった。駅前に白いテントの献血センターがあり、エイズの検査が目的の方はご遠慮くださいなんてアナウンスしてる方角から、書類ばさみを持ったひょろ長いオッさんがビニ傘さしてくねくねとこっちへやってきた。腕章を付けていたからいま思えば赤十字関係の方だったのだろうか。まっすぐこちらまでくると、傘をさしかけてくれて、こちらの煙草をちらっと見た。でも何も言わない。だから相変わらずこっちは交合にふけっていた。きっと30秒くらいの時間だったのだろうが、良識ある市民ならおこなうべき礼儀を失していたおのれにようやく気がついたわたしは「あ、気づかずにどうも」と胸ポケットのダビドフクラシックを箱ごと出して「一本どうです? これけっこう美味しいから」と言ったのであった。かえってきた答えはどどめ色の脳細胞にしっかり刻まれていまも忘れない。 「あなたねえ、千代田区は路上喫煙は罰金なんですよ!」 どひゃーXYZVVP◎×◎ 世界のAKIHABARAよ、おまえも恥知らずのあの千代田区かッ。。。 さて、最後の一服。 現代アメリカ映画では喫煙シーンはほとんど見られなくなってしまった(『スモーク』といういい味の佳作がありますが)。かつてはフランス映画やイタリア映画のように主人公たちは煙草を吸い名科白を吐いたものである。『カサブランカ』ではボガート扮する主人公リック(?)はじめ登場人物たちはひっきりなしに煙草をぷかぷか吸っている。ただし女性が煙草を吸うシーンはいっさいなかった。ハリウッドでは1942年当時でさえ女性の喫煙はタブーだったからである。この稿を書くに当たっても大いに参考としたすぐれて哲学的で煙草に関するさまざまな考察がなされている『煙草は崇高である』(1997年 太田出版刊 原著は1993年刊)の終章ちかくで著者のリチャード・クライン(コーネル大学教授 1941年生まれ)はつぎのようにいう。 【「健康第一」の思想は、アメリカの支配的イデオロギーの一部となっているが、そこには単純にして邪悪な理由がある。それはいまや経済においておおきな位置を占める健康産業に直接的な利益をもたらしていると同時に、容赦ない産業開発によるさまざまな荒廃の隠蔽に手を貸しているのだ。】 かつて詩人のアポリネールは言った。「わたしは煙草をすわずに仕事はしない」。パイプ煙草を愛飲した哲学者サルトルは、晩年ニューズウイーク誌のインタビューで、あなたの生活でもっとも大切なことは? ときかれて「すべてだな、生きること。煙草をすうこと」と答えている。サルトルによれば煙草を吸う行為は世界をわがものとする崇高かつ犠牲的な儀式であり、禁煙とは世界および自己の貧困化をもたらすもので、「煙草なき人生など生きるに値しない」と。たしかに偉大なるアメリカ・インディアンにとって、煙草をすうことは儀式そのものであった。 さてと。 これ、あなたは煙草をすいながら読みましたか? それとも読み終えてから、おもむろにしゅぱっと一本の煙草に火を付けたのでしょうか。ああ、禁煙するってさみしいですね(笑) あ!煙草嫌いのあなたは読まないほうがよかった? いずれ世界中から煙草は放逐されて、やがてはこの世界も煙のように消える。 じつをいえばわたしは、あの9.11のとき煙を吐くツインタワーをみて、ああ、アメリカが煙草を吸っている、とおもったバカヤローです。もっとも、「世界の消滅」は、ま、誰にも等しく起こることではありますが。 ■紙巻き煙草いわゆるシガレッツ(複数形)をおもに頭に浮かべて書きましたが、もちろんパイプ、キセル、かぎ煙草、それに葉巻の場合も「世界との交合」という観点からはおなじである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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