山に住むと植物図鑑や昆虫図鑑がほしくなってくる。一木一草そのいちいちに生きものの気配があり、事実、生きものが生きているわけだ。いま谷から吹きあがる風を浴びながら、もどってきた山河のあばら家そばの留守中あらたに崩落したらしい断崖の端にしゃがみ込む。本日一本目のタバコに火を付けてぷわあと吐いてみる。ふと見れば傍らの笹竹には脚の長い体長8ミリほどの一匹の蜘蛛が巣をかける真っ最中である。注視する巨大な煙を吐く正体不明の生き物らしきこちらには頓着することもなく一心不乱に糸を張る。巣を張りわたす数本の笹の、たかだかわずかに25センチ四方が彼もしくは彼女にとっての世界であり、おそらくはそれがすべてであろう。正午近い日は気温をぐんぐん上昇させて、すでにして37度Cにちかいのではないか。山にもどればあきれかえるほどな晴天で、列島を駆け抜けていった台風薔薇号のなごりの濁流はごうごごごおぅと谷の空間を圧倒する。チクショーまったく変わっていないぜ!などと谷間に怒鳴り返す。すると、おもわず連中のようなちいさな生き物たちの宿命などにおもいを馳せてみたりして、眼前で黙々と巣をかける8ミリの生命の豪奢に感動してしまうわけだ。そしてこんなとき、その生物について自然に親近感が湧いてくるからふしぎであるアモレ。いったいどんな生態のいきものなのかと知りたくなる。これは極めて当たり前な感情なのか。夜はどんなぐあいに寝るのだろうか、起きるとはじめに何をするのか、彼らの目は何を見るのか、風や雲や光や匂いや雨や雪や暑さや寒さをどのように感得するのだろうかなどなど。そうしてそうしたときに、目の前に生きる小さなイノチの正体を知りたくて、まずは図鑑などが見てみたくなったりするわけだ。図鑑にはその生き物についての、この惑星生物圏における位置づけ、手がかりが記されている。あるいはくだんのいきものがどう生活しているかのおおざっぱな事柄などが書かれていたりする。
…こうしてじゅうぶんに日に焙った3ポンドの脳味噌が、あたらしくやってきた隣人に抱く興味とまったくおなじようにして、眼前の生命の正体不明にいまさらな好奇の視線を向けるのであった。選挙の政治蚊虫どもの百鬼夜行も闇のむこうでズーズーと目を光らせているようだ。夏の終わりの泥縄メディアのドブ板国家。人権虫が鳴き出す頃合いだ。都心からの電車のなかで、鳥居民の新刊、『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』(草思社刊)一冊を読み切る。ひさしぶりの快著であった。鳥居はほんとうの歴史学とはなにかを教えてくれる(『昭和二十年』シリーズなど)、イマドキ稀な市井のすぐれた歴史家である
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