きようはこれから出かけなければならず、せっかくの四温な春の青空に洗濯物も干すいとまがなくて残念だ。きのう東京地検特捜部は堀江貴文らライブドア旧役員陣4名とライブドア社(LD社)を証取法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の罪で追起訴し、また熊谷史人前LD代表取締役を同罪で起訴した。とても義理堅い特捜検事たちはあらかじめ目指した予定表にしたがつて寸分の狂いもなく業務をこなしてゆく、権力の鑑なのである。1月16日の強制捜査からちょうど二ケ月だ。テレビの報道の番組欄にはすでにそのことが織り込み済みで、株式市場も同じである。われらの脳味噌もおなじようにそうしたことを「待つて」いたりもしている。まことにおもえば滑稽で、しかしロツキード事件もリクルート事件もそのようにして「巨悪」は解体されてきたのである。さて、では(多くのばあいに観客である)わたしたちは、いったいどのような時代に生きているのだろう、とここで立ち止まつて考えてみる。移ろう事件の波に目を奪われて、あんがいとひとはそのことに無頓着であるからだ。
わたしたちの生きる世界をざつとデツサンすると、排出権取引が世界中でおこなわれ(京都議定書)、まだみぬ取れてもいない生産物についての取引が行われ(先物取引)、人はハローワークや人材バンクという摩訶不思議な場所にかの旧陸軍731部隊のマルタのごとくに「人材」などと呼ばれて自らすすんで登録し、株式市場では秒単位で100億円が生まれたり消えたりしてしまう…そのような時代に生きているのだ。やがてやつてくる時代は、こうしたモノがさらにすすむ社会であるにちがいなく、ホリエモンはそのプロセスの中で、排除されただけに過ぎないとわたしには思えてしまう。このことについては、偶然だが、松岡正剛が「千夜千冊」のきのう取りあげた本『インターネット資本論』(スタン・デイビス&クリストフアー・マイヤー著 2001富士通経営研修所)の
書評 のなかで、じつに的確に見抜いているのをみつけた。ここでわたしが言おうとしたことの核心部分の一部を彼はすでに具体的に発見している。松岡は書く。「…(ライブドア)事件が犯罪であったかどうかということは、どこに境界線があったのか、あるいはどこに新たな境界線を引くのかというだけである。それに対して、あの事件の底辺にある株主主権をめぐる議論やマネーゲーム狂想曲を裁断するには、日本の社会も市場も、企業も銀行もマスメディアも知識人も、機関投資家もデイトレーダーも問われる。ところが、すべてはうやむやなのである」。彼はわれらが生きる「いま」を高度に熟しつつある後期資本主義のまつただ中にあるとし、「曖昧で焦点の定まらない」ブラー(blur)な時代が急速に拡大していると見る。
ブラー社会の拡張は、「スピードの向上」と「コネクションの拡大」と「資産の無形化」を招く。それによって「コネクトされた経済」(conected economy)が資本主義を市場の大半を覆って、実体経済による貧富とはまったく異なる経済社会をつくりだす…これって、実体経済は金融経済に移行する、個人も企業も社会も、金を儲けることが物を作ることに匹敵する、そのほうが富がふえると言っているわけなのだ…今日、自由資本主義市場で販売されている物品はなんであれ競売可能になっている。航空券、コレクション、通信回線、工業用部品、スカッドミサイル、専門家のサービス。何でも買える(松岡文より)。
なるほどホリエモンは云つていた、「お金で買えないモノなんて無い」。まったくそのとおりなのであり、そうした世界がすでにわれわれの、世界への向き合い方さえも変えようとしていると云うことだ。
(つづく)