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カテゴリ:さいたま市岩槻区の石仏
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前回まで岩槻区の庚申塔をまとめてきました。もう一度整理してみます。 〇地域的分布を見てみよう。 文字塔 像塔 合計 道標 % 旧慈恩寺村 25 14 39 14 36 旧河合村 10 12 22 5 23 旧岩槻町 8 13 21 1 5 旧川通村 24 30 54 5 9 旧柏崎村 6 12 18 1 5 旧和土村 11 19 30 3 10 旧新和村 17 31 48 6 13 合計 101 131 232 35 15 〇造立年によって整理してみよう。 年号 文字塔 像塔 合計 承応 1 0 1 明暦・万治 0 0 0 寛文 7 2 9 延宝 5 1 6 天和 1 3 4 貞享 1 6 7 元禄 2 26 28 宝永 0 9 9 正徳 1 8 9 享保 3 20 23 元文 0 2 2 寛保 0 1 1 延享 1 0 1 寛延 0 3 3 宝暦 6 7 13 明和 4 9 13 安永 1 6 7 天明 3 2 5 寛政 6 11 17 享和 2 1 3 文化 12 4 16 文政 8 1 9 天保 5 2 7 弘化 2 1 3 嘉永 7 2 9 安政 5 2 7 万延 0 0 0 文久 3 0 3 元治 3 0 3 慶応 2 0 2 明治 2 0 0 大正 1 0 0 昭和 0 0 0 不明 5 3 8 合計 101 131 232 今回見た限りでは岩槻区最古の庚申塔は、承応2(1653)に造立された仲町の六地蔵堂にある板碑型の文字塔で、これは邪鬼も三猿も持たない純粋な文字塔だった。続いて寛文、延宝、天和の約15年の間に文字塔13基、像塔6基が見られるが、この初期の文字塔のほとんどは板碑型で、とりわけ仲町の浅間神社に並ぶ三基の庚申塔はこの時期の板碑型三猿庚申塔の様子をよく表している。 岩槻区の庚申塔の中で最初の像塔は馬込の満蔵寺の薬師堂の中の2基だが、その主尊は薬師如来と不動明王になっていて、青面金剛主尊の像塔となると慈恩寺観音南路傍の延宝9(1681)の庚申塔が最古のもので、舟形光背に合掌型六臂の青面金剛像が浮き彫りされている。さらにその翌年天和2(1682)表慈恩寺の表慈恩寺公民館裏に立つ庚申塔が続く。その後、貞享、元禄、あたりから一気にその数を増やしてゆく。天和(1681)~享保(1736)までのこの時期は青面金剛を主尊とする庚申塔がその主なもので、55年間で建立された80基の庚申塔のうち文字塔はわずかに8基だった。 その後宝暦、明和、天明年間にも庚申塔が多く見られる。この時期は文字塔もその数を増やし全体の3割が文字塔になるが、初期の板碑型とは別物で、その多くは角柱型の文字塔だった。 次の寛政期は独特の青面金剛庚申塔が多く造立されたが、これが像塔の最後のピークで、続く文化、文政、天保には像塔はめっきりその数を減らし、その40年間でわずか7基、その間の文字塔は25基で、ここからは文字塔がメインと言えるだろう。青面金剛庚申塔は安政3(1856)の長宮香取神社(下)の角柱型の庚申塔を最後にその姿を消し、以後は文字塔のみとなってゆく。 〇岩槻区全体で232基の庚申塔を確認できた。これまでに当ブログで取り上げたさいたま市内の庚申塔は 桜区 44基 南区 47基 浦和区 29基 中央区 26基 西区 66基 大宮区 21基 北区 32基 見沼区65基 緑区 111基 岩槻区を除くさいたま市合計441基 岩槻区の庚申塔を加えるとさいたま市の庚申塔の総数は673基になる。 各区の面積の違いがあるので比較は難しいが、232基というのはここまで最多の緑区の111基の倍以上の数字で、やはり岩槻区は庚申塔が多い地域と言えるだろう
一般的な六臂の青面金剛像の場合、体の前の手(第1手としてみよう)が合掌するか、剣(時に鈴なども)とショケラを持つことが多く、それによって合掌型六臂とか、剣・ショケラ持ち六臂というように分類してきた。どちらのタイプでも後ろの二組の手は上の手(第2手)は戟と宝輪、下の手(第3手)は弓矢を持つのが普通で、時に羂索などの法具を持つものもある。ところが岩槻においては合掌型でありながら第2手の左手に(まれに第2手の右手、第3手に)ショケラを持つ青面金剛をかなり頻繁に見かけることができた。以前さいたま市の見沼区でいくつか出会ったことがあったが、他の地域ではほとんど見ることがない。見沼区は地理的に岩槻に近く、この型の庚申塔を「岩槻型」と呼びたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.03.17 12:42:15
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