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私家版 さいたまの石仏

私家版 さいたまの石仏

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☆いたやま☆

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自転車とカメラが趣味で、気軽に写真を撮っています。
お地蔵様や庚申塔などの石仏にはまってしまいました。

さいたま市の石仏探しの参考書として
「石の文化財-浦和の石造物」浦和市教育委員会
「郷土の石佛 写生行脚一期一会」酒井 正

私家版さいたまの石仏のホームページ版は
http://saita-seki.jimdo.com/

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2023.11.19
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治水橋を越えた西の地域、荒川右岸の一部がさいたま市(旧大宮市)になっています。南のほうから塚本町、飯田新田、本村新田、湯木町、東は荒川、西はびん沼川に挟まれた地域。びん沼川が元の荒川の本流だったらしく村の境界線になっていて、西が川越、富士見、東が大宮だったようです。10年前はこの地域の取材が最後になりましたが、江戸時代に植田谷本村、飯田村、三条町村の大名主(小嶋氏)が入植、開発した地域であり関連が深いということで、今回は続けて取り上げることにしました。

まずは塚本町の石仏から見てゆきましょう。

塚本共同墓地 西区塚本町3-130​[地図]


塚本本通り、南のほうからびん沼川の砂塚橋を渡り、次の交差点を左折、しばらく川沿いの道を進むと右手に墓地があった。


墓地に入ってすぐ左側、板碑が収められているブロック塀の小堂の脇に石塔が並んでいる。


左 普門品読誦・百ヶ所観音霊場順礼供養塔 文化12(1815)四角い台の上 角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下に「奉讀誦普門品二万巻供養塔」「奉納西國秩父坂東百ヶ所供養塔」


塔の左側面 天下泰平國土安全。その下に當村 同行 六人。六名の名前が刻まれていた。


右側面に造立年月日。その下、右に當村 神明寺、左に本村 小嶋當八。神明寺はすぐ北にある神明神社の横にあったお寺で明治初年に廃寺。本村 小嶋氏は、新田開発にあたった植田谷本村の大名主である小嶋氏の子孫のかただろう。


台の正面 右端に普門品講中 次不同とあり12名の名前、左側面にも13名の名前、右側面には願主4名の名前が刻まれている。


その隣 地蔵菩薩塔 正徳3(1713)四角い台の上に敷茄子、蓮台を重ねて、その上に丸彫りの地蔵菩薩立像。像は白カビが多いが目立った欠損はなく、首に補修跡も見当たらなかった。


背面中央 梵字「カ」の下に「奉造立地蔵菩薩尊容二世安樂也」両脇に造立年月日。


台の正面中央に施主念佛講中。両脇にそれぞれ数人の名前が刻まれている。さらに左側面に20名、右側面に8名の名前、あわせると50名ほどの講になりそうだ。


続いて六地蔵塔 明和7(1770)舟形光背に浮き彫りされた六体の地蔵菩薩立像。サイズ、像容ともによくそろっている。


右の三基の光背に銘が刻まれていた。右から造立年月日。真ん中「念佛講中」左 武刕足立下新田村。江戸時代初期に開発されたこの地域、飯田新田を挟んで南が下新田、北が上新田となったという。

神明神社 西区塚本町2-180-1​[地図]


塚本共同墓地から北へ進み、次の道路を右折するとすぐ左手に神明神社の入口があった。写真右に見えるのは自治会館。二つの鳥居の先、参道の奥に拝殿が立っている。


参道右側の奥、木の下に二基の角柱型の石塔。近づいて見ると江戸時代初期らしく非常にユニークな庚申塔で、二基の庚申塔は銘も浮き彫りされた像も左右対称になっていた。


左 庚申塔 天和2(1682)角柱型の石塔の正面 青面金剛立像 合掌型六臂。塔全体にカビがかなり多い。塔の上部に小さな丸い突起があり、笠付きだったものと思われる。上部に日月を欠くが、笠が唐破風型としたら、日月は笠のほうに彫られていた可能性も考えられる。持物は矛・法輪・弓・矢。青面金剛は磐座の上に立ち、邪鬼は不在。その下に大きな聞か猿が彫られていた。


猿の下の部分に六名の名前、右端は小嶋氏になっている。その上は「發願」か?


塔の左側面に造立年月日。その下にやはり大きな言わ猿。


右側面「奉造立庚申」その下に見猿。三面合わせて三猿がそろう。猿の右ひじのあたりに別當、その下に真福寺と刻まれていた。


さらに右下に本村新田とある。下新田、上新田が力を合わせてこの庚申塔の造立に当たったものだろうか。裏面に「爲二世安樂也」と銘が見えるが、立木が邪魔でこちらは写真は撮れなかった。


右 庚申塔 天和2(1682)全体の構図が左塔と対称関係になる。正面は青面金剛立像 合掌型六臂。下部に聞か猿。


猿の下の部分。左端は遊馬邑か?続いて5名の名前が刻まれていた。右上にやはり「發願」?


塔の左側面は左塔の右側面と同じ内容。中央に「奉造立庚申」その下に見猿。見猿の左ひじあたりに「別・」その下は削れていて不明だが別當 真福寺だったのだろう。左下に本村新田の「田」が確認できる。


塔の右側面は左塔の左側面と同じ。中央に造立年月日。下部に言わ猿でこちらも三猿。


裏面に「爲二世安樂也」こちらは木の枝を体で支えてやっと写真が撮れた。





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Last updated  2023.11.21 04:44:51
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